昼と夜の寒暖差が激しくなってきた初冬。外の明るさと時刻の感覚にずれが生じてああ季節が変わるのだと実感する。けれどそんなずれも、数日もすれば修正されて何度も経験してきた季節に馴染んでいくのだろうけれど。
 水鳥が立ち読みしていた雑誌の内一冊を吟味して購入してからコンビニを出ると、空はすっかり夜の紺色に染まっていた。本当は雑誌なんて欲しくなかったのだけれど、何時間も居座ってしまった罪滅ぼしは肉まんひとつでは贖いきれない雰囲気だったので財布から余計な出費をすることになってしまった。指先がかじかんで肌寒いからと帰り道の途中から羽織ったジャージの上着のポケットに両手を突っ込んでしまいたいのに雑誌の入ったビニール袋が邪魔だった。生まれてこの方コンビニを利用してきた中で一番大きい袋を手にしているに違いない。それほど感動するようなことでもない。吹き抜ける風が、陽だまりの温度を覚えている身体にはやけに冷たく感じられてマフラーが欲しいなんて気が早いことを思ってしまう。暖房器具だってまだ出していないのに。さっさと家に帰って温かい湯船に浸かって温まりたい。そう思い歩くペースを上げようとしたところ、背後から「水鳥?」と自分の名を呼ぶ声が聞こえたので思わず振り返ってしまった。

「――神童?」
「ああ、奇遇だな」
「…そだね」

 立っていたのは神童で、予想外の遭遇に面食らってつい素っ気ない態度になってしまった。早く帰りたいとは思っているけれど、それを神童の所為で遅らされてしまうとか、そんなみみっちいことを気にするつもりはない。
 部活が終わってから一度自宅に帰って出掛けていたらしき神童の格好は私服でかつ防寒対策もしっかりと取られていた。上着は水鳥のように持ち合わせのジャージではなくきちんとコートを羽織っていて、流石にまだマフラーも手袋も装着してはいないが温かそうという印象を持たせた。この時間帯によく出かけているのかもしれない。それはそれで意外な気がする。珍しいものを見たという心地で、水鳥はじろじろと神童を見つめ続ける。そのことに、彼は段々困ったように微笑んだ。
 神童は、ピアノのレッスンの帰りだった。小さい頃は教師を自宅に呼んで教えて貰うことも多かったが、中学に進学してからはピアノよりもサッカーに力を注ぐ傾向が顕著になった。確保できる練習時間が不定期になり、その度に誰かに自宅まで足を運んで貰うのは申し訳ないし余計な気を使うのも面倒だったので、拓人は時間が取れた時にレッスンに出掛けて行くようになった。それでも、サッカーの試合や大会前となると全く音沙汰を無くしてしまう程度の嗜みだったが。自宅からさほど遠くもないからと、徒歩で通っていた。ここ暫くの間に急に夜は冷え込むようになったなと帰路を急いでいる途中、見慣れた後姿を見つけたので思わず名前を呼んでしまっていた。立ち止まり振り返ったのは、やはり同じ部活でマネージャーをしている水鳥だった。
 夏場ならつい日の長さに油断したと言い訳できる時間帯でも、冬に突入しかけた今ではとっくに陽は沈みきっている。気が強く口も悪いとはいえ女の子以外の何者でもない水鳥がひとりで出歩くには十分危ない時間帯だった。心配と不満の色が表情に浮かんでいたのか、神童の顔を見た水鳥の表情が渋くなる。露骨な変化に、神童も溜息を禁じ得ない。これが素の彼女らしいと言えばその通りかもしれないけれど、好きな女の子の心配くらいしても良いだろうというのが神童の言い分だ。

「こんな時間まで何してたんだ?部活が終わってから随分経ってるのに、まだ家にも帰ってないんだろう?」
「何でそんなことわかるわけ?」
「そんな薄着で出歩いてたら直ぐにわかるさ」
「しっかり防寒してるアンタからしたら間抜けに見えるって?」
「そういう話じゃない。何なら着るか?」
「いらねーよ」
「口が悪いな」
「今更!」
「それもそうだな」

 さて何の話だったかな。考え込む神童を前に、水鳥はもうさっさと帰ってしまいたかった。心配されているから尋ねられていることも重々承知だ。相手が神童ならば、相手が自分でなくとも知り合いならば大抵同じ態度を取るだろう。特別女の子扱いされている訳ではないのに、水鳥は神童が自分に取る態度を悉くむず痒く感じてしまう。それは多分、真っ直ぐ自分を見つめてくる神童の瞳が本当に真剣で、優しいからだ。実の親だって、年頃を迎えた子どもにここまで顕著な優しさは降らさない。何も水鳥の家庭に不和があるとかそんな理由ではなく、彼女が若干照れ屋で、物怖じしない強さを好む性質に生まれ育ってしまった所為だろう。可愛らしさと弱さはどこか近くて、人前で見せる涙は安っぽい。だから初めは神童のことだって、あまり好いていなかった筈だった。腕に巻いた赤いキャプテンマークを、正直似合っていないと嗤ってやりたかった。けれど時間が進むにつれて違う想いが水鳥の中に生まれて、刺々しい気持ちは丸く穏やかな物に変化していった。おかげで今では二人きりでも普通に会話できてしまう仲となった。時間の流れとは不思議なものだ。

「まあ取りあえず、そんな薄着で女の子がこんな時間まで出歩かない方が良い」
「はいはい、わかってるよ」
「風邪を引いたら困るだろう?」
「ああそっち?大丈夫だよ私頑丈だし、普段だったらとっくに家でご飯食べてテレビ見てるよ」
「そうか、なら良いんだが」

 女の子という一語を持ち出されて、ありふれた夜道は危ないからという文句が続くのかと思いきや単に季節の境目による体調管理の心配をされてしまった。肩透かしを食らった気分になり、水鳥はさっさと神童を安心させてやろうともうこんな出歩きはしないと約束する。それがこの場凌ぎの宣誓文句ではないことがどれだけ神童に伝わるかは知らない。だがそこまであっさり確約するならば何故今日に限って出歩いていたんだと尋ね返してくる神童に、水鳥は決まりが悪そうな顔をして渋々口を割った。
 理由は単に、一度家に帰ったけれど自宅の鍵を忘れて入れなかったから。珍しく両親揃って外出しているから、朝方に鍵を忘れないようにと注意されていたのに見事に忘れた。どうしようもないので、家の人が帰って来るまでどこかで時間を潰していようと歩き回っていたのだが気温の下降に屋外はキツイとコンビニに逃げ込み店員の圧力に無視を決め込みながら結局雑誌を購入したという顛末。聞き終えた神童は、今度こそ納得したという風に頷いていた。そんな真面目な顔では恥ずかしいので頷かないでほしかったのだが仕方ない。神童拓人はこういう人間だ。

「水鳥」
「…ん?」
「これ、」
「鍵?なにこれ、どうすんの」
「俺の家の門と玄関の鍵だ。預けとく」
「―――は?」
「もしまた今日みたいに家に入れない事態に遭遇したら俺の家に寄ってくれて構わない。もしその時俺がいなかったらその鍵を使えば入れる」
「馬鹿か!!」

 突然ポケットから鍵を二つ取り出して何事かと思えばとんでもない申し出をし始める神童に、水鳥はここが往来の真ん中とも構わずに大声を張り上げていた。大体鍵を持っているからと言って、住人の許可を貰っているからと言ってありがとうと我が物顔で余所の家に足を踏み入れる人間がいると思っているのだろうか。
 水鳥の怒った理由がわからないと言いたげな神童の顔は、先程水鳥が自分の間抜けな一面を打ち明けて頷かれた時と大差ないのだが今度は腹立たしくて仕方がない。そんなことをほいほいしていたら泥棒が寄って来るだろう。せめて友だちに連絡を入れて家に立ち寄らせてもらえ程度のアドバイスを贈れば綺麗に話が纏まったのに。学校を出てから数時間、腰を落ち着けられていなかった疲れがここにきて一気に押し寄せてきた。

「兎に角、これは返す!私がアンタの家の鍵持つ理由がない!」
「そうか残念だ。でも本当にまた今日みたいなことがあったら家に寄ってくれて構わないぞ」
「…覚えとくよ。まあこの時間帯にピアノ習いに行ってるんじゃそう機会はないだろうけどね」
「――?俺がいなくても家には誰かしらいるだろうから上がって待っていてくれればいいだろう」
「アンタ、知り合いのいない人間の家に上り込んだことあるのか?」

 あっさり鍵の返却を受け入れたから、もしや神童の下手くそな冗談を真に受けてしまったのかと思いきややはり本気だったようで。水鳥が益々眉を吊り上げて怒るのを、不思議というよりはわからないかなあと困ったような顔で受け止める神童は、頭は良いくせに言葉が下手くそだった。心配と言えばその通りで、夜道を一人出歩くよりは友人の家に身を寄せて貰った方が自分の与り知らぬ場所での出来事だとしたって好ましい事態のはずなのに。だけどやっぱり出来るなら、自分を頼って欲しいと思うから妙な根回しをしようとして警戒されるという悲しいことになっている。確かに神童だって、友人の自宅を訪ねて本人がいなければ大人しく去ることを選ぶだろうに。それでも今更引き下がることが出来ないのも事実だ。

「まあもし次があればの話だから、そう怒らないでくれると助かる」
「…誰の所為だよ…。ただでさえアンタん家デカくて落ち着かないんだから、面識ない家族とかと一人で遭遇するかもしれない場所に突撃するなんて有り得ないだろ…」
「俺の家族が俺の好きな子を無碍に扱う筈はないんだけどな…」
「―――は?」
「いや、何でもない。危ないとか散々行ったくせに引き留めてちゃ意味がないな。送ろうか?」
「……ああ、うん、ありがと」
「……?素直だな。まあ良いけど」
 水鳥の自宅の場所は知らないが、声を掛ける直前に彼女が向かおうとしていた方向に歩き始める。水鳥は何も言わず神童の横に並んでついてくる。歩調は丁度いいらしい。しかし急に黙り込んでしまった水鳥に、神童はしつこすぎたかなと反省する。怒らせてしまったのならば送らせてはくらないだろうから理由は別にあるのか。
 悶々と考え込む神童の隣で、水鳥もまた悶々としていた。地面を睨むように俯いた彼女の頬が真っ赤に染まっていることを、きっと神童は気付いていないだろう。そして何より、自分が会話の中で発したとんでもない発言にすら気付いていないに違いない。
 ――無意識かバカヤローーー!!!
 何気なく挟まれた「好きな子」の一語が指し示す人物が、明らかに水鳥でしかないことを理解してしまった。特別女の子扱いなんてされていないと思っていた矢先の出来事。けれどその特別扱いに何も嫌悪を感じない自分の気持ちがわからない。羞恥と混乱で思考は上手く纏まらないし顔も上げられない。すいすい進んでしまう神童の歩いている道が正しいのかももはやどうでも良かった。
 先程まで感じていた冬の肌寒さも、今はもうどこかへ消え去ってしまったのか体中が暑くてたまらない。本当、恥ずかしいったらない。



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土星が落ちた
Title by『ダボスへ』




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