「シン様、飴、どうぞ」

 朝練を終えてサッカー棟から教室に向かう途中、拓人は茜に声を掛けられた。一拍間を置いてから茜の言葉を理解して、自分に差し出されている両の手に視線を落とす。その手の上には沢山の飴玉。駄菓子屋でばら売りされているようなものから、スーパーなどで一袋に纏められて売られている一般的なものまで、種類は一つとして被っていないように見えた。この飴を、茜は拓人にくれると言っている。
 しかし拓人はなかなか飴に手を伸ばすことが出来なかった。この中から一つ選べばいいのか、それとも丸々全部貰っていいのかわからなかったから。だけど、前者を行動として起こした方が失敗はないだろうと即座に判断して、拓人は一番上に乗っていた水色の小袋に包まれた飴を頂戴することにした。飴でこの手の色合いということは大抵ソーダ味だ。拓人はその味が嫌いではなかったので。
 にこにこと微笑みながら拓人の挙動を見守る茜は途中何の言葉も発することはなかったが、拓人が飴を受け取り礼を言うと、やはり言葉ではなく表情で応えた。貰ってくれたことが嬉しいと言う風に微笑みを強くした。だがこのやり取りさえ済ませてしまえばもう何も用件はないと言わんばかり、茜はぺこりと頭を下げて踵を返す。彼女の進行方向には水鳥がいて、どうやら鞄を預けていたらしい。茜が戻ってくるのに気付き鞄を差し出している水鳥に、拓人は茜の両手は飴玉で塞がっているということを教えてやらねばという淡い義務感を覚えた。けれどそんなことは茜と向き合っている水鳥には見ればわかることだったようで、仕方ないと呆れた顔をしながらも彼女の鞄を持ったまま教室に向かい始めた。ぼんやりとその背中を見送りながら、拓人は一度も振り返らなかった茜のことを腑に落ちない気持ちで見つめ続け、それから彼女に貰った飴をそっとポケットにしまった。急がなければ、遅刻だ。

「トリックオアトリート!」

 二限目が終了した休み時間、教科書とノートを机に仕舞う為に視線を伏せていた拓人の目の前にずいっと誰かの右掌が突き出された。手だけではわからずとも、添えられた音声が犯人を教えてくれる。同じクラスで、こんな気安い真似をしてくるのは幼馴染の蘭丸くらいのものだ。溜息をついてから、顔を上げる。見上げた蘭丸は、棒付キャンディを舐めながら立っていた。先程の台詞と言い、一体何なんだと胡乱気に眉を顰めた拓人に、蘭丸は「遊び心がないな、神童は」とからかうようい口端を緩く上げた。

「今日ハロウィーンだろ?だからお菓子持ち歩いてる奴多くてさ」
「ハロウィーン?――ああ、そうか今日なのか」
「興味なさそうだな」
「まあな。霧野だって別にハロウィーンを楽しみたい訳じゃないだろ」
「いやいやお菓子調達はハロウィーンの正当な楽しみ方だって」
「どうでもいいからその手を下ろしてくれ」

 拓人と会話しながらも彼からお菓子を巻き上げようと伸ばされた手がそのままだったので、適当に筆箱でも持たせてやった。だがやはり「いらん」と落とされた。そうは言われても拓人は普段からお菓子など持ち歩いていない。そんなこと蘭丸だったら知っているだろうに。季節風に唆された蘭丸の妙な気紛れに巻き込まれて拓人だって盛大に被害者面をしたかった。付き合いきれないと蘭丸との間に距離を作る為に椅子に深くもたれかかった瞬間、ポケットからかさりという音がして、そういえばとすっかり忘れていた今朝茜から貰った飴を取り出す。流石にまだ溶けだしたりはしていないだろうと机の上に転がす。蘭丸は意外そうに眼を見開いた。拓人の予想通り、蘭丸は端から彼がお菓子を持っているなどと期待していない。駄菓子屋で売っているようなパッケージに、殊更拓人らしくないというイメージを増長されて、蘭丸は咄嗟に「どうしたんだそれ」と尋ねていた。

「ああ、今朝貰ったんだ。山菜に」
「――茜に?」
「欲しいなら持って行って良いぞ」
「………」
「霧野?」
「いいよ。それは茜がお前にやりたくて、お前が貰ったものだろ。他の奴にやんなよ?」

 最後の最後に、真剣に釘を刺して蘭丸は拓人の席を離れた。他人に貰ったものを更に他人に譲るなんてとんでもない。そんな固定観念で動いたわけではなくて。あの小さな飴玉に一人の少女の恋心が乗っかっているのならばそれを横取りするほど自分は野暮じゃないということ。ハロウィーンという隠れ蓑があったからこその積極性なのかもしれない。残念ながら拓人には、ハロウィーンであろうとなかろうと大差はなかったようだが。自分の席に戻りながら、蘭丸は拓人に悪戯をし忘れたことを思い出した。まあ今日はまだ終わりではないのだから、悪戯の内容はゆっくりと考えればいいかと思い直す。尤も、どうせすぐに忘れてしまうのだろう。蘭丸はお菓子が食べれればそれで良い。


 昼休み、前の授業から教室に戻る途中廊下で茜の姿を見かけた。拓人が近付いていることに気付かない茜はクラスメイトの女子生徒たちと廊下の端で談笑している。サッカー部でクラスも違うとなると、当然拓人の知っている顔などありはしなくて。そんな友だちと茜が自分の前で見せるのとは違う朗らかな笑みを浮かべているのを見るとどうにも奇異だ。特に女の子の部員が少ないサッカー部だけの人間関係が全てだなんて通り過ぎるはずがないのに。
 茜の死角、後ろをすり抜ける瞬間、彼女たちの会話が耳に飛び込んでくる。盗み聞く意図があったわけではない不可抗力。

「茜、今朝いっぱい飴持ってたけどもう全部配っちゃったの?」
「うん。サッカー部のみんなとクラスの子にも何人か配ってたら終わっちゃった」
「じゃあ茜はもうハロウィーン用のお菓子ないんだ。悪戯し放題じゃん!」

 「何それー」とじゃれあう少女たちを背に、拓人は何故か自分ががっかりしていることに気が付いた。原因はきっと、茜が自分以外の大勢にも飴を配っていたということ。彼女自身が拓人にだけくれると言ったわけではない。そもそも拓人の前に差し出されただけでも沢山あったのだから、他の人にはあげないという発想の方が図々しい。だけどたぶん、二人きりだったから。自分が不用意に飴玉を手放そうとしたことを、蘭丸があまりに真剣な眼で諌めたから。もしかしたらこれは、特別なものだったんじゃないかだなんて、無意識に思い上がっていたのだ。
 ――うわ、俺格好悪いな。
 拓人の思い上がりが実は正しいだなんて彼は知らない。茜はハロウィーンの常套句さえ告げなかった。そもそもお菓子を上げる側から積極的に差し出すだなんて伝統からは外れている。そういう、このハロウィーンの日からずれた欠片が都合よく拓人を誘導していた。

「――シン様?」
「……山菜」

 先程まで友だちと話し込んでいた茜が、拓人の直ぐ斜め後ろから名を呼んだ。どうしたと問えば、拓人が通り過ぎた直後に彼がいると気付いて視線を送った所、突然歩みを止めてしまったまま微動だにしなくなってしまったので心配になったそうだ。それもまた無意識な行動だった為、茜の的確な説明に思わず礼を述べてしまう。茜はよくわからないと言いたげだった。

「――そういえば、今朝はありがとう」
「……え?」
「飴、くれただろう。ハロウィーンだったんだな、忘れてた」
「ああ、はい。でもそんな大袈裟。あんな小さい物…」
「でも嬉しかった」
「―――、」

 本当に、大袈裟。そう思うのに、拓人が発する声音だとか、柔らかく細められた瞳だとか。きっと心底からの本音なのだと、疑うことは出来ない自然な確信があって、茜はこれ以上言葉を重ねることが出来ない。ハロウィーンだと知らなかったからといって、飴玉ひとつ、茜からは珍しかったとしてもそれを貰うこと自体は全く新鮮な行為ではない。それでも拓人は嬉しかったという。
 ――自惚れちゃダメだ。
 もしかしたら、自分に貰えたから嬉しかったのだろうかなんて、それだけは有り得ないと心から漏れ出した願望を即座に抑え込み否定する。きっと拓人はハロウィーンだと知らなくて、だけど後からそれを思い出して、そういう季節柄のイベントに参加したことの物珍しさを喜んでいるのだ。そういうことにしておいて欲しい。
 的外れな解答を据えて、茜はふと拓人の優しげな瞳とかち合ってしまう。真正面から自分に向けられたその甘い表情に、茜は自分の頬が驚くほどの速さで熱を持っていくのを感じる。咄嗟に両手を彷徨わせる。顔を覆ってしまえるカメラは生憎持ち歩いていなかった。忙しなく目線を巡らせながら、時折おずおずと拓人の顔を覗き込む。用事もなく会話も終わりそれでも拓人は「それじゃあ」という終止符を打ってくれない。茜からは言えない。話しかけた手前、それから混乱を来たした思考は冷静な判断を下せない。恋する女の子の心の中がどれだけ複雑な回路を持っていて、どれだけ簡単に熱を帯びて難解に暴走するものかを拓人は知らないのだ。全く、あまりどきどきさせないで欲しい。
 トリックオアトリートの一言さえ交わさないまま、昼休みの廊下で無言の空間を維持する拓人と茜は、しっかりハロウィーンを満喫しているのかもしれなかった。



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気付かないふりなんてずるい
Title by『呪文』




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