※遊郭パロ



 初めて出会ったのは、拓人が呉服店を営む父親に連れられて花街に連れて行かれた時だった。羽振りのいい職業だったのか、大勢の芸妓に囲まれながら気分よく酒を飲み交わす大人の浮かれた雰囲気に当時まだ幼かった拓人が馴染めるはずもなく。隣の間へと続く襖を開けて抜け出した。それもやはり幼さ故の行動で、今になってしまえば拓人は居心地の悪い場所にも感情を殺して居座ることが出来るだろう。それを義務だと割り切ってしまえば、逃げる為の算段よりも如何に無難に場を乗り切るかのほうが大切なことのように思えた。
 そもそも母親が健在である拓人には、客でもない大勢の女性に父親が囲まれている状況自体気持ちが悪いと思えたし、色濃く化粧を施した芸妓たちは失礼ながらも幼心には薄気味悪いお化けのように映った。綺麗というよりは、背後に見え隠れする色欲の気配が恐ろしい。それは女性たちというよりも、この花街に足を踏み入れた瞬間全体から感じられたことだ。同い年の子どもたちを前にしても積極的に遊んだりは出来ない人見知りの気を持つ拓人だったが、その時は無性に自分と同じ子どもという存在を心底欲していた。母親に助けを求めて念じなかったのは、呼んではいけないような気がしたからだ。ここには、どんな大切な女性も連れ込んではいけないように思われた。
 何度目か、人の気配がないことを毎度確認しながら通り抜けた襖の先で、拓人は初めて茜と出会ったのである。拓人と同じくらいの背格好、おさげにした髪と普段着よりは少し上質に見える着物。通りに面した窓を開け放ち、縁に腰を下ろしながら足元に散らばった沢山の貝殻を緩慢な動作で拾ってはまた畳の上に戻していた。
 少女の背後で拓人が開けた襖の音がよほど静かだったのか、それとも通りから聞こえてくる音が賑やか過ぎたのか、茜は一向に拓人に気付く気配を見せずに自分の手元に意識を落としている。もし彼女の気を惹こうと思うならば、拓人は自分から声を掛けなければならなかった。けれど拓人は人見知りで、同年代とはいえ初対面の女の子に声を掛けるに相応しい言葉が咄嗟には思い浮かんでこなかった。幼馴染に明け透けな人間を持つと、つい頼り切ってしまっていた自分を拓人は初めて反省した。それでもどうにかしなくてはなるまいと、拓人は一歩踏み出して取り敢えず「ねえ」と声を掛けようと意を決した。しかしその一歩を踏み出した瞬間、畳の軋む音に気が付いた茜はすっと拓人の方を振り返った。予想外のことに、拓人は予定していた「ねえ」のたった一言すら飲み込んでしまう。

「――誰?」

 発せられた声は、拓人の知り合いの誰にも似ていない鈴のような声だった。尋ねられたのだから答えなければ。そう息を吸いこんで名乗ろうにも、彼女が尋ねたのは自分の名前などではなくこの場に於いて自分がどういう立場の人間かということなのではないかという疑問がすっと頭を満杯にして拓人の喉を詰まらせる。頭の回る子どもはこういう時に不便だった。間抜けな問答などしたくないという小さな自尊心があるのだろう。だが一向に名乗ることも立場を明かすこともしない拓人に、茜は訝しいと鋭い視線を送ることもなくじっと彼の言葉を待っている。表情は暗がりで良く見えないけれど、どこか穏やかに微笑んでいる様にも見えた。それは、拓人が自分と同じくらいの子どもだと見抜いたからかもしれない。

「…神童拓人…。君は?」
「茜。お客さん?」

 黙り込んでいるわけにもいかないと絞り出した言葉。結局名前だけ。間髪入れずに答えた茜の声からは、利発さよりも穏やかな気性の方が色濃く滲んでいる様に感ぜられた。
 客という一語に引っ掛かりを覚えながらも、この建物内に於いてはその通りだと頷く。勇んでやって来たのは父親だけで、自分は来たくもない場所に無理やり連れて来られたのだと理解して貰うにはどうすれば良いのか。拓人にはさっぱりわからなかったけれど、言葉多くに言い募って説明することも出来なかった。一人でこんな場所を彷徨っている自分が恥ずかしくて仕方がなかった。それは、花街がどういう場所かを朧気ながらに拓人は理解していたからだろう。
 拓人の意を汲むことも、余計な詮索をすることも茜はしなかった。茜は先日この店に売られたばかりで、小間使いにしてもまだ学習不足として今日は一日この部屋を出てはならないと女将から言いつけられていた。明かりも付けずに出来るだけ気配を消していた部屋に、まさかお客人が迷い込んでくるとは思わなかった。だから、表情に動揺は浮かばないものの、茜自身彼をどう扱っていいかはわからないでいたのだ。
 花街に売られるということがどういうことかは知っている。けれど、金を直接払うでもない客人の子どもにどう接するべきかは知らなかった。だから、深く考え込むこともなく一緒に貝合わせをしようと誘いを掛けた。絵合わせでも良いし、歌かるたもあるのだと続ければ、拓人と名乗った少年はあからさまにほっとした表情を見せた。子どもらしい遊びを提供されたことに安堵しているならば杞憂だったのにと可笑しく思う。この花街に子どもらしい直情的な嫌悪感を抱いているらしい拓人に、茜は少しだけ好感を覚えた。それが、普通だと思いたかった。
 結果として、拓人の父親が彼を探しに来るまで拓人と茜は一緒に遊んだ。遊び始めれば直ぐに打ち解けた様子の拓人を見て、彼の父親は普段の彼にしては珍しいと感じていた。気の知れた幼馴染とばかり遊んでいる印象しかなかった拓人が初対面の少女と仲良くしていたのだから当然かもしれない。そして帰り道、拓人の話題の端々に上る少女に、好ましい感情を抱いているであろうことも直ぐに理解しそれを子どもの友情と捉えた。そしてそれが、その後何年にも渡って拓人と茜を結びつけるきっかけになったのである。父親は花街の中で利用する店を茜のいる店に絞っているらしく、そこに出掛ける時は決まって拓人を連れ出して店の人間に話を通して毎度茜も座敷に通させるようになった。酒を飲む大人たちからは離れて片隅で遊戯に興じる拓人と茜の姿は傍から見ていて可愛らしく、無責任にお似合いねと褒めそやしたくなるような、そんな光景だった。
 そんな親しみの中で、拓人は徐々に忘れていくことになる。花街への嫌悪と、茜の立場。自分と友だちであることだけが彼女の店での立場ではないということ。拓人とは顔を合わせることのない昼間、茜が積み重ねている稽古と所作が嘗てこの店に初めて足を踏み入れた拓人が嫌悪したものであるということ。自分たちが、もう子どもという場所から旅立たねばならない年齢に差し掛かっているという現実。

「シン様のお父様のお座敷に呼ばれるのもあと少しかもしれないね」

 いつしか花街の外でも会うようになっていた。そんなある日のこと、待ち合わせした神社の境内で、茜は賽銭箱に銭を放り手を合わせながら言った。祈るならばもっと真剣に祈らないととは思うのだが、彼女はあまり神を信じていないことを拓人は知っていたので黙った。それよりも、茜の言葉の方が気になった。
 茜は決して拓人を名前で呼ばなかった。苗字を捩って珍しい呼び方をした。あまり親しげにしては店の人に怒られてしまうからと、幼い頃困ったように眉を下げながら説明をされた日のことを拓人は未だに覚えている。

「私、そろそろ水揚げするの」

 ぼんやりと思い出に耽る拓人の頭を、茜の言葉がぶん殴った。嫌悪を忘れても、花街がどういう場所かは知っている。幼いころの直感的なものではなく実状的な意味で理解している。だから、茜の言葉の意味だってわかる。
 水揚げするということは、茜が芸妓として客を取るということ。それは処女を捧げるということで花柳界に本格的に足を踏み入れ生きていくということだ。そうなれば、茜はもう座敷の隅で子どもの遊戯に興じたりはしない。拓人ではなく、彼の父親を囲む女たちの側に立つことになるのだ。ぐらぐらと、これまで積み重ねた幼さの甘い優しさが崩れていくような感覚。拓人の隣で人生の転機を宣言した茜は、出会った時と同じ微笑手前の穏やかな表情でどこか遠くを見つめていた。瞬間、拓人はそれが穏やかさではなく諦めを彩った眼差しであるように思えた。あの店は、どれだけ広々と沢山の間を持ったとしても彼女にとっては窮屈な牢獄と同じなのではないかと。
 そして、そんな店に訪ねてくる拓人とその父親は、他のどんな客とも大差ない存在なのではないかと。思ってしまえば、拓人の精神はどんどん不安定にふり幅を増して揺れる。振り払うには迫る現実が断絶を付きつけ過ぎている。表情も髪型も、出会ったあの日と変わらない。けれど身長は伸びて仕草はどんどん少女から女になって行く。そんな茜の傍で、きっと拓人も少年から男に成長してきたのだ。自分のことであればそれだけ無頓着にもなるけれど。

「――茜、」
「シン様にも、もうこんな風に外で会うことは出来なくなるね」
「…そんな、」
「仲良くしてくれてありがとう」

 まるでこれが最後だと言わんばかりの茜の態度に拓人は腹の底で黒い苛立ちが沸々と湧き上がる。出会った日から、きっと訪れることは決まっていたこと。幼さ故の無知にかまけて友だちなんて関係を築いてしまったから別離がある。積み重ねてしまった情が寂しさを募らせる。だけどそれを悔やむにはもうお互いを想い過ぎたから、拓人の苛立ちは茜の生い立ちを通り過ぎた場所に降る。
 外で会うことは出来なくなると、茜自身が言ったのだ。外でなければ、あの店に行けば茜に会えると。あの日母親を蔑ろにして女を買うような真似をする父親に抱いた軽蔑。そんな気持ちは、もう拓人の中から零れ落ちてしまっていた。金が回す社会の存在を、呉服屋の跡取りとして世知辛く身に付けた彼には、もう純粋な感情だけで立ち回る幼稚は残っていないのだ。
 だからこの手は離さない。初対面、声を掛けることすら出来なかった拓人は、今あっさりと隣に立つ茜の手を握っていた。

「――シン様?」
「すまない」
「……え?」
「俺は、お前を買うよ」
「―――!」

 驚きで瞳を見開く茜に、拓人は初めて彼女が感情のままに表情を大きく変える瞬間を見た気がした。友情を保存して立ち去ることを、茜は望んでいたのかもしれない。女として、自分を商品にしなければならない彼女が人間として誰かと対等に生きた証人として。だけど拓人はそれを望まない。思い出だけでは何も満たされないことを、本能が告げている。きっと今ここで茜を逃がしてはいけない。目の前に、隣に、自分の元に繋ぎ止めておきたい。

「好きだ」

 もっと早く、茜を買わなければ得られない未来しか残っていなかったとしても。だからこそ何も知らない振りをしていられる内に告げておくべきだった言葉を贈る。徐々に瞳を曇らせて、はらりと涙を零す茜は何も言えない。好きだとして、応えて良い筈がない。秘めた誓いと称して小指を贈ることすら烏滸がましい。それでも、一向に離されることのない拓人に繋がれた手が愛おしい。
 陽が沈む前に、茜は店に帰らなければならない。拓人がこうして自分と会っているということは、今日は彼の父親は店に顔を出さないだろう。小間使いとして、先輩の芸妓たちに付いて座敷に上がる自分の姿を拓人は知らないだろう。女ではなくとも、決して清らかではいられない。拓人が来た時だけだ。あんな稚拙な空間が許されるのは。しかし拓人は茜を好きだという。もう夜に咲くしかない茜を必死に繋ぎ止めようとしている。彼に抱かれるためだけに生きることは出来ないのに。割り切るのだろうか、自分も、拓人も。それは何だか大人みたいで悲しい。
 しかし認めてしまった想いを捨てることなどお互いどちらかを裏切らなければきっと不可能で。だからきっと、この先茜が女になったとして、白粉も紅も何もかも。女として自分を飾る全てに拓人への想いを秘めながら生きていくのだと思えて、茜は溢れ続ける涙を止めることが出来なかった。だって化粧が崩れてしまうから、その時を迎えてはきっと泣けない。ほつれた糸の結び目に縋るような、ある日ぷつりと切れてしまう関係を嘆くだろう。
 だから茜は、陽が落ちて帰路を急がなければならないその時まで、化粧気のない素肌の頬を涙で濡らし続ける。拓人に繋がれていた手はいつの間に解かれて、茜は抱き締められていた。自分を包む温もりに僅かでも幸せだなんて思ってしまった自分の心の浅薄さが恨めしかった。





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僕は今日愛に生きます
Title by『告別』





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