大型のキャリーバックを玄関に投げ出して、リビングのソファに飛び込むようにして身体を沈めた夏未を、豪炎寺は風呂上がりの頭をタオルで拭きながら珍しいこともあるものだと視線で追った。ガタンとキャリーバックが倒れて玄関のタイルとぶつかる派手な音がする。それを一度玄関に向かい立てかけてから豪炎寺もリビングへ移動した。夏未は化粧を落とすこともなくクッションに顔を押し付けている。それをお気に入りだと言っていたのは彼女の筈だったのに、そんなに強く顔を埋めては化粧が着いてしまうかもしれない。何より呼吸だってしづらいだろうにと豪炎寺は数日ぶりに二人で暮らす部屋に帰って来た夏未に掛ける言葉をなかなか見つけることが出来ないでいた。「おかえり」は、実は洗面所からきちんと告げたのだけれど、夏未はそんな豪炎寺の前をさっと通り抜けてしまったから、聞こえていなかったかもしれない。だけど聞こえていたのなら、改めて言い直す必要もないだろう。
 この部屋を出ていくときはカチッと着こなしていた彼女のスーツが、今はよれっとした崩れた印象を湛えている。それはそのまま夏未の状態を表している様にも見えた。出掛けた先は実家だった筈なのに、何をそんなに疲労困憊といった風に陥っているのだろう。少なくとも昨晩寄越された電話の最中は、彼女はいつも通りはきはきとした様子で明日には帰るという旨を報告してくれた。しかし今日の二人の間で交わされたやりとりは全てメールだった為に彼女の心身的様子までは窺い知ることが出来なかった。凛とあることを常としている彼女は、ちょっとした体調不良を気力で跳ね除けられるとでも信じているのかそこで休憩することをしないから、崩れる時はとことん崩れてしまう。燃料切れになるまで働きまわって、限界が来て、それを情けないと項垂れる。夏未が自分の抱える仕事を最優先して資本となる身体にてんで無頓着なことに豪炎寺は勿論周囲も随分やきもきさせられて来たけれど、今更らしさと呼ぶ以外にどうすれば良いのかわからないというのも事実だった。やりたいようにやらせてみようと放っているような、そんな独占的な庇護を彼女に与えているわけではないけれど兎に角自分が一番に彼女を気に掛けていればそれで良いとは豪炎寺も思っている。夏未自身、それを認めて事後報告になったとしても豪炎寺には誰よりもたくさんの気持ちを打ち明けてきてくれたはずなのだ。素直な気持ちを言葉に乗せるのが下手な夏未と、そもそも口数自体が少ない豪炎寺とでは意識してそれをしないと簡単に距離を置いてしまう。恋人という枠を設けても、まずは個人で立たなければという大前提を優先しがちになってしまうのは、お互い生真面目すぎるのだと二人共通の友人たちの言葉だ。

「――夏未、どうした」
「……豪炎寺君?」
「俺以外の人間のはずないだろう」
「……いたの?」
「さっき俺の前を通り過ぎただろう」
「気付かなかったわ」
「…そうか」

 夏未の正直な言葉に、豪炎寺は少しだけ落ち込む。しかし直ぐに持ち直し、夏未がソファを占領しているのでカーペットに腰を下ろして彼女の頭を撫でた。瞬間、夏未がぴくりと身体を硬直させて、それからふっと力を抜いていく。そのあからさまな変化を見ているのが豪炎寺には面白い。気難しい猫を手懐けたような心地になる。それは満足感だ。自分が夏未の内側にいるという確固たる証拠。恋人関係にあるのに何を今更とも思うのだが、安穏と続く日常の中で時折こうした確認作業を行うことは割と豪炎寺の心の平穏を保つ上では重要だった。独占欲か、単に人間としての器の問題なのか。突き詰めて解き明かす必要はないと思ってはいるが、兎に角果てはないなと豪炎寺は己に対して苦笑を浮かべるしか出来ない。拒まない夏未だって、少しは責任を負ってくれても良いだろうとさえ思ってしまうのだから。
 暫く無言のまま夏未の頭を撫で続けていると、もう夏未ももう満足したのかクッションに押し付けていた顔を上げて豪炎寺の方を向いた。化粧はさほど崩れてはいなかったけれど、やはりクッションのカバーに僅かに付着していることを豪炎寺は目敏く見つけたのだが言わなかった。

「……ちょっとだけ疲れたわ」
「実家以外にもどこかに寄って来たのか」
「いいえ。実家に敵襲があったのよ」
「敵襲…」
「親切な親戚一同が集まってご飯を食べたのよ。昔から私にも良くしてくれた人たちばかりだから、ちょっと無理をしたの」
「無理?」
「延々続く社交辞令にずうっとにこにこしながら、結婚とか仕事とか、振られる話題に関係ないでしょとしか言えない答えの代わりに順調だとかその内だとか、適当な言葉を相手に不快な思いをさせないようにって選ぼうとしてたら頭がパンクしそうだったわ」
「――そうか」
「今日も叔母様たちに買い物に出かけないかって言われたから慌てて逃げかえって来たのよ」
「成程」

 「本当に大変だったんですからね!」と言い募る夏未に、豪炎寺は「わかっているよ」と頷いた。そして少し、自分の都合の悪いことを流せるようになった夏未に安堵する。出会った頃、お嬢様と形容して何ら不都合のなかった彼女だから、親戚という身近な存在であっても子どもらしく振舞うことはないだろう。謙虚さを「良い子」として褒める大人たちは、大抵それを標準値と決めつけている。良い子から普通の子の振る舞いに落ちれば途端にそれは叱責に繋がるだろう。それを疑問にも思わず、お嬢様の自分を貫いてきた夏未が、親戚を放り出して自分の精神的安寧を優先させたことは決して逃げではないのだろう。自分らしくある為のラインを上手くコントロール出来るようになったということだ。だから次は、体調のコントロールをお願いしたいのだが。中学高校とサッカー部のマネージャーを務めた彼女の体力は地味に同年代の女子平均を上回っている。運動神経が特別良い訳ではないのだが活力はあるといった具合。
 夏未が帰ってそうそうソファに倒れ込んだのは、疲労よりも安堵の念が強かったらしい。我を張らないで良い空間に帰ってきたことで自然と緩んだ気持ち。その空間に豪炎寺がいることを見落としてしまうくらい一緒くたにしているのだと都合の良い解釈を交えながら豪炎寺も夏未がこうして無事に帰って来てくれたことを喜んでいる。二人で暮らし始めたこの部屋に、夏未を縛り付けるものがないことを豪炎寺は知っているから尚の事。恋人という二文字だけが頼りの、幸せな時間と場所。

「――なあ夏未」
「なあに?」
「引っ越すか」
「はあ!?」

 突然のことに、何を言い出すのだと夏未はソファから飛び起きた。豪炎寺は落ち着き払った風で思いつきの発言を特別驚くような部分はなかったと言いたげにふんぞり返っている。

「もう少し夏未の家の近くに引っ越すのも良いかなと今唐突に思ったんだ」
「何故、豪炎寺君の職場には確実に距離を挟むわよ」
「いや、夏未が実家に帰るたびに家を空けることになるなら立ち寄って帰って来れる位置に居を構えた方が俺の都合として気持ちが楽になるという話だ」
「豪炎寺君は私が実家に帰るのが嫌なの?」
「嫌とは言わないがそうだな…。うん、当たり前みたいな顔をして、俺も夏未に同伴できるようになるのが一番理想的なんだろう」
「…………ふーん」
「…?何だ?」
「豪炎寺君、それは捉えようによっては私と結婚して私の実家を豪炎寺君にも実家として寄りつくことを許して欲しいって言ってるみたいに聞こえるわよ?」
「――その通りだが?」
「ムードを考えて頂戴!」

 恥じらいを浮かべるどころか、真顔できょとんと夏未を見つめ返す豪炎寺に業を煮やし、夏未はそれまで頭を乗せていたクッションを思いっきり彼の顔面に押し付けた。不意に鼻を掠めた香りが数日間触れることのなかった彼女のものだと理解して、豪炎寺は甘んじてそれを喰らった。ばたばたと洗面所に駆け込んで「疲れたから今日はもうお風呂に入って寝るわ!」と声を上げる夏未を、豪炎寺は姿は見えないと知りながら視線で追い駆ける。クッションを押し付けられる瞬間、僅かに見えた彼女の顔が紅潮していたような気がするのは、たぶん気の所為なんかじゃないだろう。
 ――ふむ、難しいな。
 次はムードを考えて言葉を発しなくてはならないらしい。一緒の墓に入ってくれではなくて、一緒の実家に帰らせてくれと言うのはどうにも格好悪い気がするのだけれど、取りあえず、この先もずっと一緒にいたいという気持ちを伝えられる言葉を、豪炎寺はより真剣に用意しなくてはならない。



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その匂いを思い出す日
Title by『ダボスへ』




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