憧れの消費期限を間違えているんじゃないか。立向居は時々、そんなことを言われる。立向居が現在の原型を築き始めたころ、きっかけとなった人のことを知っていて、だけどその人からはずっと遠くにいた人間に限って、言う。立向居勇気は、円堂守に対する憧れの消費期限を間違えているんじゃないかと。
 いつだったか、そんな失礼な言葉が円堂の耳に触れてしまったらしく、憧れの人に立ち位置を弁えない妄言が知られてしまったと顔を青くする立向居に、円堂は「その通りじゃないか」とあっさり笑い飛ばした。初めて会った時の感動を今でも覚えているかと言われたら自信はない。ただ嬉しかったし、視界に映り込み実力を認めて貰えたことに感激したことを記憶としては保存している。なぞるように再生される映像の中にいるのはたしかに幼き日の立向居自身だ。それから円堂と同じチームでプレイする間、立向居のキーパーとしての位置は補欠と分類されてしまう場所だった。キャプテンでもありゴールキーパーであった円堂に憧れ続けた立向居は悔しさを覚えながらも自分の技術を磨く以外にそこに留まり続ける術を持たなかった。
 学生時代というものをいつの間にか通り過ぎて、立向居はサッカーで生きていく道を進んでいた。懐かしい面々とはお互いサッカーを続けていれば巡り会うもので、全国大会で何度か。都合が許せばサッカーをする為だけに県外に召集されることもあった。その中でやはり立向居は円堂に憧れていて、そして彼はその憧れを裏切らない姿を体現したままでいた。それはこの先もずっと変わらないことで、円堂の背中は立向居よりもずっと先にあるに違いないと信じていた。

「でも円堂と立向居ってさ、もう実力差ほとんどないんじゃないの」

 懐かしい声が容赦なく立向居の憧れを叩く。齢を重ねて行く内に自分の専門分野での憧れを、人目を憚らずに宣言する人間は珍しさを帯びていく。一番を目指していないわけでもなく、どちらかといえば負けず嫌いな気質であることを立向居は自覚している。それでも、自分はまだ円堂には追い付いていないと思い込んでいる。プロになって、同じチームでない同ポジションの人間をここまで持ち上げ続ける彼の姿勢に、周囲は段々と呆れて来ている。
 今、立向居にとっては何の喜びを齎しもしない褒め言葉を寄越した彼女に限って言えば、立向居と円堂のどちらかに思い入れが極端に偏っている訳ではない。だから純粋に、自分の目にはそう映っているという感想に過ぎないのだろう。そのことが立向居には重たい事実として圧し掛かる。
 居酒屋の小さなテーブルを挟んで立向居の向かい側に座っている塔子は、立向居の無反応に近い視線の落下に気が付いたのか「相変わらずなんだなあ」と大袈裟に息を吐いて見せた。もしも円堂と立向居の実力がイーブンと設定して結果に差が出るとしたらそれは精神力の話だなとひとりごちて、目の前の皿から出汁巻き卵を一切れ口に運んだ。まだ昼間に近い時間帯に顔を突き合わせて突然「出汁巻き卵が食べたい」と言い出して、夕方を待たずとも営業している居酒屋を見つけ出すのに躍起になっていただけのことはあり、塔子はとても美味しそうに口に放ったそれを咀嚼していた。こんな時間帯から大人の男女二人、どうしても酒が飲みたいという理由でもないのに居酒屋に足を伸ばしていることをアルバイトの店員辺りは不思議に思っているかもしれない。尤も、自分たちの間には男女とはただの事実であり付加価値を持たない。お互いの性別を表すだけの文字で、それ以上もそれ以下もない。年頃の男女が二人きりで並んで歩いていれば自然と付いて回る憶測は、自分と彼女の間に於いてナンセンスも甚だしい勘違いとなる。塔子側からすれば、更にその意味合いは濃くなるだろう。何せ思春期という人間関係形成の基礎を学ぶ時期に時間の大半を父親の警護とサッカーにばかり回してしまっていたから、未だに彼女の友人関係は比率的に圧倒的に男子の方が多い。その代わり、数少ない女友だちとは密な友情を築いているのだろうが。

「立向居と円堂ってさ、別にプロになってからも同じチームにいたことがあるってわけじゃないんだよな」
「そうですね。それに最近は円堂さん、雷門の監督になっちゃって自分のプレイにはあまり頓着がないみたいですね」
「あの円堂が?どうせこっそり自主練とかしてるんじゃないの?母校のピンチに二つ返事で頷いて駆けつけるのもそれはそれであいつらしけどさ、もう子どもじゃないんだ。その場の気持ちだけで決断するにはアイツはもう雷門から離れた時間の方が圧倒的に長いよ」
「―――なんか、塔子さんが言うとそうなんだなって思いますね」
「何で?」
「何ででしょう。でも、俺からすると塔子さんは凄く大人になったなって印象強いからかもしれません。俺は自分自身が大人になったなんて自覚はあんまりないから」
「だから憧れちゃうのか」

 口調は相変わらず粗雑だが、時と場を弁えた言動を身に付けていることを立向居は知っている。素がどちらかといえば圧倒的に今自分の目の前にいる彼女だろう。つまり立向居は、塔子にとってそういう振る舞いが許される場所にいる。子どもらしくあれた、相手の位置など確認する必要がなかった頃。塔子はもうそこを過去にして、振り返って、そこを共有したことのある人間の前でさりげなく立ち戻るだけ。塔子はもう大人だった。昔、サッカーを離れても決して女の子らしい服装を好まなかった彼女が抵抗なくスカートを履いている姿を見ただけで立向居は彼女はきっと変わってしまったのだと思い込んだほどだった。
 それに比べて自分は何て変化の乏しい存在なのだろうかと落ち込んでみたりして。だけどそれは大人になろうとはしているという一種のアピールでしかなくて、立向居の心を占領し悩み病んだりはしない。今の自分が子どものままであろうと大人になっていようと自分はサッカーをしている。それだけが曇りない事実として差し出されていたから、立向居は迷わない。目指す場所はあの背中。遠いと知っている。自分が勝手に遠ざけているだけだと周囲は嗤う。だけどそれでかまわないじゃないかと立向居は思うのだ。追い駆けるものも挑戦もなくして停滞するだけのゴール地点に、自分はまだ決して辿り着いてはいけないのだから。

「そういや立向居は最近円堂に会ったんだっけ?」
「ホーリーロードの決勝を見に行ったときに少しだけ話しましたよ」
「ふーん」
「…?何ですか?」
「いやあ、初めて立向居が円堂と会った時のことを思い出した。あの時の感激っぷりは凄かったなあと思って」
「そりゃあ、あの頃の俺には円堂さんは芸能人感覚な所もありましたし…」
「その後も世界大会が終わってから卒業式で試合する為に招待された時とか、途中一定期間会えない時期を挟むと再会する度にホント嬉しそうに円堂に駆け寄ってたしね」

 一歳しか齢は離れていないのに、塔子はまるで久しぶりに再会した親戚の子どもの成長を辿るように思い出を掘り返す。恥ずかしい思い出ではないから構わないけれど、そこまで愉快なことを自分はしただろうかと不思議にも思う。中学生のころ、立向居は本当に円堂に憧れていたのだから仕方がない。同じチームの中で彼が一番で当然と諦める類の盲目とは違ったけれど、自分のキーパーとしての技量を判断するに真っ先に基準として持ち出すのは円堂だったことは否定しない。彼以外のキーパーを、立向居は敬意は抱けども慕わなかった。
 立向居は今でもその名残の中にいる。サッカーを続けている限りそうなのだろう。達観できるほどの場数もまだこなしていない。円堂は少しだけ立向居の先にいて、嗜める一歩手前の苦笑で向けられる憧憬を持て余している。拒むことも出来るけれど、少しでもその憧れ通りの実力を維持したいという単純な意地があるのかもしれない。円堂は己を卑下しない。というよりも自分で自分を評価することにさほど頓着がなくただ上を見て進むだけ。少なくともあの頃はそうだった。サッカーという枠の中を脱することをしない二人はいつまでも先輩で、後輩だった。体育会系と流してくれない遠くの観客はそれをおかしいと指差す。雑音だ。
 けれど塔子は、嘗ては同じ枠の中にいたはずなのにいつの間にか観客側に立ってしまった。そして違和感を唱えるのではなく思い出を現在に重ねては変わらないと笑う。変わって欲しいのだろうか。立向居は尋ねない。求められても応えられないから。だって自分はサッカーをしているだけで、それしか出来ないのだ。他人を追い駆けながら、決して自分以外の為ではない。だから立向居は時折塔子の思い出話に付き合って、からかわれて、相槌を打つ。塔子がボールを蹴ることをやめたのはいつだっけだとか。初めてスカートを履いている姿を見たのはいつだっけだとか。立向居の知らない人と話す際に、笑みを零す口元を隠す様に手が添えられているのを見たのはいつだっけだとか。
 そんなことに意識を捉えられる度に立向居は無性にやるせない気持ちになってしまう。だから立向居は目を逸らす。円堂に憧れてからこれまで走り続けた場所から飛び出せないことを詫びるように。塔子が思い出として語る出来事の延長上に自分だけが残っていることに罪悪感を覚えながら。
 塔子は大人で、自分はまだ子ども。そんな風に苦しい言い訳を並べながら、立向居はテーブルの上に視線を落とす。出汁巻き卵は綺麗に塔子の腹に収められていた。



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期待される幻
Title by『ハルシアン』




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