「仕事の合間にちょっと時間があったから寄ったんだ」
 毎度捻りのない、信憑性も薄いが一番尤もらしい理由を引っ提げて、ヒロトは布美子の部屋に上り込んでいる。最初こそ、幼少期を共に過ごした友人が今では一人暮らす部屋に不思議さと好奇心、気まずさを感じながら座布団の上にきっちり正座をしてお茶を啜っていたヒロトも最近では訪問の頻度の高さ故、随分とだらけた態度を見せるようになっていた。正直、布美子としては腹立たしく感じる部分もあるのだが、ヒロトはそんなことは全く気にしないといった体で彼女が差し出したグラスを受け取り中身の麦茶を半分程度まで飲んで、「ここは居心地がいいね」と笑った。それは、客人ほどの丁寧さはなく、気心の知れた人間がそれなりのもてなしをしてくれることに関してか、空間そのものに関してなのかは追求しない。どちらであったとしても布美子からすれば大差のないことだ。何の用事もなく、裏もなくこの部屋のベルを鳴らすヒロトの神経を疑う。初めてヒロトが彼女を訪ねてきた時なんて、彼に住所を教えた記憶なんて全くなかったし、その内教えようなんてことすらも考えていなかったからそれこそ口から心臓が飛び出るかと思うほど驚いたことを布美子は未だ鮮明に覚えている。
 布美子がお日さま園を出たのは高校を卒業するのと同時期だった。彼女と同じ時期にお日さま園を去る面子もそれなりに多く、特別目立ったことをしたわけでもなかった。サッカーは高校進学と同時に辞めて、昔のように皆で一つのボールを追い駆けまわる日々は、ずっと遠くに終焉していた。寂しいと零す暇もなく、日常はめまぐるしくも穏やかに幸せだった。元来年齢よりも大人びて見られることの多い布美子は、当人も周囲の目を自覚しながらその通りでありたいと思っていた。子どもの内にそんなことを考えていた所為か、周囲の大人を品定めするよう癖があった。お日さま園にいる子どもたちは多かれ少なかれそういった癖がある。しかしそれは、目の前の大人が自分にとって危険か安全かを判断するのに必要だからだ。憧れとか、尊敬とか、そういった感情は関係ない。警戒しても、抗えないことは知っている。それでも、無力に諦めて流されて屈服して殴られて従うだけの子どもではいたくなかった。悲しいことは沢山あって、だけども自分たちは可哀想などではないという矜持が必要だった。布美子は割とそういった矜持、プライドみたいなものを自分の内側でのみ構築し保つことが出来たから、園内の同年代の子どもたちの中では冷静な部類だった。一歩引いて、見渡せる。集団が一方向を向いて目指している物が、最後尾からの方が存外良く見渡せたりする。今になって振り返ると、もう一歩踏み出して、集団の中に埋もれて何も気付かず唯一絶対の善良と大勢が思い込んだ“お父様”とやらに利用されていれば良かったと思うこともままある。
 特別扱いされているとやっかまれたヒロトを、同じようにやっかんでいれば良かっただとか。そうすれば、ヒロトが誰であったかなんて些末なことで、気にもせず気付くことすらなく。大人になってから突然姿を現した彼に図々しい真似をするなと冗談と本気の混ざった叱責を飛ばすことだって簡単だった筈なのだ。きっと布美子は、ヒロト以外にならそれが出来る。お日さま園出身の、誰にだって。
 ヒロトが吉良財閥を継いだことは玲名から聞いた。その時の布美子の反応はたった一言「そうなの」としか呟けなかった。困ったような顔をした玲名に、「めでたいことなのかしら」と問えば「どうかな」と曖昧な言葉しか返ってこなかった。誰もが離れていく場所に、ヒロトは今も近しい場所で生きている。吉良ヒロトとして。それは、誰なのだろう。そんな疑問を思い浮かべる度に布美子は自分が酷いことを考えている様に思えた。ヒロトがお父様に特別扱いされていた理由なら大半の人間が知っている。お父様の本当の息子に瓜二つだから。だから何なのと、布美子は言いたかった。自分がお日さま園にやって来た時、ヒロトはもういたかしら。ヒロトだったかしら。思い出そうとして、年々遠ざかっていく記憶がぼやけて上手くいかない。
「――ヒロト」
「ん?何?」
「ヒロトは私と初めて会った日のこととか覚えてる?」
「初対面の?……ごめん、覚えてないや。布美子は覚えてるの?」
「覚えてないから聞いたの」
「それもそうか」
「麦茶のおかわりいる?」
「いいの?」
「コップ差し出しながら言わないでくれる」
「はは、ごめんごめん」
 記憶の波に塗り潰された初邂逅から始まった暮らしの中で、布美子がヒロトと二人きりになった記憶は実はそれほど多くはない。大人しかったけれど、それでもヒロトは男の子だったし、布美子は最初から女の子だった。お日さま園の経営にお父様が積極的に関わってこなかったら彼女はきっとサッカーなんてしていなかった。太陽の日差しが届かない部屋の中。絵本、お人形、クレヨンと画用紙、折り紙等々、たったそれっぽっちと思えるようなことで、子どもだった布美子は十分時間を費やせたはずなのだから。それでも、あのお日さま園で排除されず子どもとして枠の中に納まり続けるにはサッカー以外に方法がなかった。大人になって足に傷跡が残っていなくて本当に良かったと思う。それだけで、布美子の現在は女としてなかなかに穏やかだったりする。
 台所に戻り、グラスに氷を足して麦茶を注ぐ。今この部屋に居座っているヒロトは、布美子が共にサッカーをした彼か、それとも吉良ヒロトとして社長業に勤しむ彼か。どちらも同じ人間なのに、間に空白の時を挟んでしまった布美子にはまるで別人のように思えるのだ。正直会いたいとはあまり思っていなかった。実際お日さま園を出てから瞳子には元気にやっているという旨の手紙を何度か出したが心の中でさえもヒロトに宛てた言葉を綴ったことなどなかったのだから。
 それなのに。
 ヒロトは布美子の都合などお構いなしで表れて、彼女を昔のままだと決めつけて部屋に上り込んで寛いでいる。何を考えているのかわからない、それだけは昔と変わらない笑顔を浮かべながら。大人になっても変わらないそれは、きっと子どもが浮かべるには不釣り合いなものだったのだ。だから気に食わないと直感が訴えて嫌悪を示されたりもしただろう。
 それでも私は――。
「ヒロトのこと、好きだったんだけどね」
 ――だけど貴方は、違うでしょ?
 音もなく、台所から戻ってヒロトにグラスを突きだしている布美子を座ったまま見上げて、ヒロトは大きく瞳を見開いて瞬いた。その顔が間抜けだったから、布美子はそれだけで満足だった。振り回されるだけの自分ではないという実感が嬉しかった。
「……違くないよ」
 やっとのことで、絞り出すような声。受け取られることのないグラスは冷たすぎて、表面の水滴がカーペットに落ちる。溶け始めた氷が立てた音と、二人の心が立てた音は同じくらい小さくて、それでも無音の部屋では十分過ぎる音量だった。まるでお互いのその、僅かな心の震えを感じ取ったように、二人して呆れた風で笑った。漸くヒロトは布美子からグラスを受け取って、そのまま手近な膝高のテーブルの上に置いた。それから、恐る恐る布美子の方を見ないようグラスに熱視線を注ぎながら、言った。
「また、来ても良いかな」
 好きだったと言ってくれた喜びは、それが過去形で呟かれたことを聞き漏らしたりはしなかった。だから尋ねた。今はもう好きじゃないからという拒絶だったのならば、ヒロトはきっと言い訳もせずにこの部屋を出ていくのだろう。幼い憶病な、他人を気遣う優しさを持ちながら、それ故に衝突を避け大人ぶった笑顔を駆使して生きていたあの頃と変わらないヒロト。それさえ見抜ければ、布美子の返答はたった一つしかない。
「いつでもどうぞ」
 麦茶しか出ないし、留守だった時の為の合鍵なんて絶対に渡してやらないけれど。始まりなんて、そんなものだ。


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傷つかない方法も傷つけない手段もわかるけどそれじゃ幸せになれない
Title by『にやり』





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