誰にだって、スタート地点は存在している物だ。ただその時点を覚えているか覚えていないかの違いがあるだけで。初めて立った時、歩いた時、喋った時、覚えていないけれど確かに存在している沢山の初めてが自分の後ろにしっちゃかめっちゃかに散らかっている。思い出と呼ぶには劇的でない記憶の方が大多数で、それでもサッカーボールを初めて蹴った日のことはよく覚えていると言うと聞く人全員がそれでこそ円堂だと何故か褒めてくれた。本当に、何故なんだか。円堂にはよくわからないのだけれど、円堂の奥さんに言わせてみてもそれでこそ円堂君よということらしい。何だか少し、恥ずかしかった。


 夏未の記憶の中で劇的な瞬間として刻まれている初めてといえばやはり生まれて初めておにぎりを作ったときのことだろうかと振り返る。主観的に見ても随分歪だったことは自覚していたけれど、それはそれでご愛嬌として流せばとても感動的な一場面のように思えた。今になって思うと、あの頃自分のサイドを固めていた同級生と下級生の女の子はあの世代の女の子の平均より幾分上のラインをキープしていたのではないかと思う。勿論、料理の点に於いて。夏未の全くの未経験という方が稀有だということは理解しているけれどそれでも。
 割と若くして結婚してしまった夏未は世間の若い女性が花嫁修業として熱を上げるお稽古事も通ったことがない。料理教室辺りには興味がないわけでもなかったけれど、毎日実践することを余所でもこなしてから家庭内に持ち帰るということはどうにも二度手間に思えて仕方がなかった。旦那様は特に不満を零すことをしていないので現状のままで良いのではないかと思ってみたりする。

「夏未ー、今日さあ外食にしないか」
「…?まだ夕飯の準備してないから別に良いけど…。何食べに行くの?」
「うーん、決めてない」
「ふうん、ま、ぶらぶらしながら決めるのも良いかもね」

 一ヶ月か二ヶ月に数回。円堂と夏未はこんな会話をして夕食を外で済ませている。専業主婦である夏未の仕事ともいえる料理を苦痛に思ったことはないけれど、偶にキッチンを汚すことなく後片付けもしないでベッドに潜り込める快適さはほんの少しの贅沢とも言えた。
 ただ気に掛かるのは、円堂は毎度自分から外食をしようと夏未を誘う癖にその度何を食べたいという希望は口に出さないし、そもそも抱いてすらいないようで。だから夏未はちょっとした不安に襲われる。その日の昼食が美味しくなかったのかしら、それとも朝食かしら。もしかしたら昨日の夕飯が口に合わなかったのかも、といった具合に。それでは芋蔓方式に円堂と夏未が二人で同じ食卓に着く日にまで行き着いてしまうのだが、言葉に出さない不安を堰き止めてくれる人などいない。

「――夏未?」
「…え?」
「さっきからぼんやりしてるけど、どっか具合でも悪いのか?」
「いえ、平気よ。ただ外食するのって久しぶりだなって思ってただけ」
「ああ、そっかあ、確かに久しぶりだよなあ」

 結局、家を出てから偶然看板が目に入ったからという理由で回転寿司に入った。これも円堂と結婚するまで夏未は利用したことがなくて、円堂に連れられて初めてやって来た日のことを思い出す。二人で並んで座りながらゆっくりと目の前のお皿が流れていく光景を夏未は不思議そうに見送っていた。慣れるとなかなか面白い。その僅かな感情のきらめきが幼子の様で可愛らしいと円堂に思われていることを夏未は知らない。無防備に曝け出された横顔を自由気儘に眺める権利を持つたった一人の円堂は、サッカーという部分に於いてはあまり変化なく成長し、それ以外の面では夏未が驚くくらい立派に成熟し大人になった。端的な一例を挙げるならば、円堂からプロポーズを受けたことだろうか。出会った頃から変わらぬ恋心を円堂に対して抱いていたけれど、サッカーボールとゴール以上に彼とお似合いの存在なんて思いつかなかったくらいだから、その内本当にサッカーと結婚してしまうのではないかしらと苦笑を覚えていたほどだ。既に恋人としてお付き合いしていたのにも関わらず。
 円堂と結婚して、夏未の生活はがらりと変わった。家庭を預かるものとして、管理するべき範囲が一軒家という圧倒的な広がりを見せた。洗濯、掃除、料理。一人分プラス一人分は単なる要する労働力の増加ではなく噛み締める幸せの増加だったから一向に構わなかったけれど。そういえば、そのことで自分に落ち度を振り返ったり改善点を尋ねたりはしなかったなあと夏未は今更かとは思いながらにはっとする。自分を律する精神を持ち合わせている夏未は、自分を甘やかして妥協点に落ち着く人種でもなかったので至らないと思ったら率先して努力を重ねることの出来る人間だ。だからわざわざ円堂に指摘を求める必要もないと言えばない。円堂だって、夏未に家事をしてほしくて結婚したわけではなかったのだから。
 それでも。一度気になり出すと真偽を明らかにするまで釈然としないのが夏未の性分だった。

「ねえ円堂君、何か私に不満とかある?」
「…ふ?うーん、別にないけどいきなりどうした?」
「特に理由はないけど…そうね、今日みたいに突然外食を求められるとあの家が窮屈なのかしらなんて、卑屈な方向に考えてしまうの。……怒った?」
「全然。取りあえず、夏未の言うような窮屈とか、そういう不満っていうのかな、そんなんじゃないんだ」
「でも何か理由はあるってことね」
「……うん。ちょっと纏める時間貰っても良いか?」
「どうぞ」

 食べかけの寿司を一度口に纏めて放り込んで、円堂は腕を組んでいかにも考えていますと言った体勢を取った。これは、円堂が夏未と結婚してから見せるようになった癖。昔から行動で他人に自らの信念を示す人だった。それはチームの上に立つ人間として非常に素晴らしい要素となっていたのだろう。だけども、夏未にはそれが寂しくもあり不安でもあった。これから夫婦となる人間が、背中でしか物を語れないだなんて。好きだから、必要ならば三歩下がって着いていく、そんな古めかしい貞淑な妻となることも吝かではないけれど、円堂は別に夏未にそんなこと望んでいない。二人並んで手を取り合っていくことを望んでくれたから、夏未は円堂にゆっくりでも良いから、言葉で自分に物事を伝えてほしいと願った。そして円堂はそれを了承した。頭で物事を整理してから会話をしたり、その為の回路が発達した人間ではないから時間はかかるけれど、円堂は夏未の為にそれをした。だから夏未はじっと円堂の言葉を待つ。間違えたっていいけれど、出来るならば間違えないで通じ合う為に。
 数分後、円堂は考えが纏まったのか組んでいた腕を解いてから夏未の顔をじっと見つめた。それから、彼女の左手をそっと取る。薬指には、結婚式で交換した指輪が変わらぬ輝きを持って鎮座していた。

「俺さ、たぶん時々すっごく不思議になるんだと思う」
「不思議?」
「初めて会った頃、中学生で理事長の娘でお嬢様で料理なんてしたこともなかった夏未が、今こうして俺のお嫁さんになって俺が家に帰ったら手料理振舞ったりしてくれてることが」
「そんな…それを言ったら円堂君だって同じくらい大人になったでしょう?」
「自分がどれだけ成長したかなんてわからないからさ」
「まあそれは確かにそうね」
「あとは確認かな」
「………?」
「外食とかさ、付き合ってた頃はデートとか行くと毎回してたじゃん。それがさ、今日みたいに前回はいつ外食したんだっけとか思い出せないくらいの頻度に落ち着いたんだなって思うと、改めて結婚して毎日一緒に飯食ってるんだって実感湧くんだ」
「円堂君…」
「いや、俺あんまり家事とか得意じゃないから邪魔になるかなと思ってあんまり手伝いとか出来ないから偶には楽させてやりたいとも少しは思ってるぞ?」
「ふふ、わかってるわよ」

 取られたままの左手に、夏未も視線を落とした。輝く指輪を目にする度に思っている。この指輪が輝いて見えるのは、きっと世界中で自分と円堂だけに違いないと。そして、初めての恋心に戸惑いながらも飛び出した世界を駆け抜けた先でこんな風に円堂と同じ目線で何かを共有出来るようになるとも思っていなかった。追い駆けるだけだと思っていた。想い続けるだけだと諦めかけていた。そんな夏未を掬い上げてくれた円堂が、こうして自分が隣にいることを不思議に思うくらい愛してくれていることをただ嬉しく思う。
 視線を上げて見つめ合う。微笑んで、キスの一つでも交わしたかったけれど流石に場所が場所なだけに自重しておいた。よく見ると、円堂の頬にはご飯粒がついていたので微笑みに少しの呆れを含めて空いていた方の手で取ってあげた。「気付かなかった」と言う円堂に「もっとゆっくり食べましょう」と促して触れ合っていた手を離し食事を再開した。名残惜しくはあったけれど、何なら帰り道に手を繋いで歩けば良い。出来るならば、円堂から手を差し出してくれると嬉しいのだけれど。そんな夏未の細やかな願い事を前に、円堂はふと思い出したように口を開いた。

「不満はないけど、そろそろ名前で呼んで欲しいかもしれない」

 ――その辺りは、もうちょっと様子見ということでお願いします。



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Title by『ダボスへ』




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