損なことをしていると春奈は思う。茹だる昼下がりの暑さの中を棒アイス一本でどれほど心安らかに歩けると言うのだろう。いつの間にか前輪のパンクしてしまった自転車を片手で押しながら歩く不動の歩調は普段より緩やかで両手を使用しないが故に幾度か歩道を蛇行しながら進んでいく。「犯人見つけたらぜってー殺す」とは不動の十数分前の不動の言葉だったが、春奈は何故そうなるのだと水色のソーダバーの封を切りながら首を傾げた。その前輪に、人為的かつ悪意的な作用が働いた証拠はどこにもないだろうにとは言わなかった。元々穏やかでない気性をパンクと暑さのせいで殊更荒げている不動に諭すような物言いは事態をより面倒な方向へと転がす。春奈が年下で女という理由もあるだろう。だがそれを差し引いても不動は他人に頭を押さえつけられるような物言いを看過できる人間ではない。それは彼の忍耐力が欠如しているとかそういう次元の話ではなく、孤独であるが故損なえなかった自尊心の結果ともいえる。そういう一面を、春奈はぼんやりと察知したが特別尊重することはなかった。
 結果、ぶつかることもなかったわけではない。それでも不動は女である春奈を力ずくでねじ伏せようとしたことはなかったし、春奈も生意気を言ったら殴られるかもなんて恐怖で口を噤むような人間じゃなかった。変なところで自分の筋を通そうとする人だから窮屈な思いをするんだろうなあなんて分析してみたりして。通り過ぎる住宅街、道路に面したフェンスを覆う植物を観察しながら雑草かわざわざ植えられたものかを考えたりする。外側に向かって花を咲かせている植物は別に誰かを招こうと淡紫色の花をこの暑さの中付けているわけではないのだろう。日よけもなく日射に晒された花弁の水分はきっとたちまち蒸発してしまうに違いない。人間だったら倒れている。そう思うと、春奈は全く知らない人間の住む家の呼び鈴をならして貴方のお宅のお花が元気がありませんからどうか水を撒いてあげてくださいとお願いしたくなる。勿論やらないが。
 そんな春奈の思考の脱線は足取りを随分と覚束なくさせていたらしく。そういえば前方不注意だった。丁度普段ならうるさいくらい話しかけてくる春奈が黙り込んだことを不思議に思った不動が彼女の方を振り返っていて、その表情にありありと危なっかしいと書いてあるものだからつい反論したくなる。たまたまですよ、と。たまたま話しかける言葉を持たず数秒の時間を持て余した時に視界に映り込んだ植物の名前をたまたま知っていたばっかりに思考に耽ってしまったが故にたまたま歩調が乱れてしまっただけなんですよ。その全てが音にはならず頬を流れ顎を伝い落ちる小さな汗の滴と共に地面に落ちた。手にしたアイスは溶け始めて指先に触れる。暑さがもたらす不快が悉く春奈を苛む。

「暑いです。不動さん暑いです」
「知るか。俺だって暑いんだよ黙って歩け」
「黙って歩いていたら不動さんが物言いたげに此方を見ていたんじゃないですか。なんですか、私が黙り込むと心配でつい振り返っちゃう感じですか」
「は?お前暑さで頭湧いてんじゃねえの?」
「不動さんが冷たーい!」
「よかったじゃねえか、暑いんだろ」
「全然良くないですよ。不動さんの冷たさは腹立たしいのでどちらかというと頭に血が昇って体温が上がるんで逆効果ですね。いい迷惑です」
「ぶっ殺すぞ」
「暑苦しい喧嘩を吹っかけないでください」

 これでは不動を煽ってしまうかなと危惧しないでもなかった。普段、心持に幾分余裕がある時であれば不動の粗雑な言葉などいくらでも流せるのだ。滅多に本心を言えない人だから。口から出まかせばかりを吐く狼少年とは違う。勢い任せの口喧嘩でも不動を嘘つきと謗ったことはない気がする。つまり日頃そんなイメージを抱いていないということなのだろう。子どもながらにそんな人柄を愛しいだなんて思ったりもしているのだ。おおっぴらげに私の彼氏を紹介しますと人前で宣言して回ったりはしないけれど、人当たりも人受けも良いとはいえない不動に春奈がぴったりと寄り添っている理由を考えれば答えはいつだってものの数秒で弾き出されるはずだ。
 そんな感じで、いつもならば年齢の割には大らかな愛情で以て不動の悪態を丸め込む春奈だったが今日はそれが出来そうになかった。それは勿論会話の端々に上る暑さの所為で、溶けては春奈の指を汚すアイスの所為でもあった。空色とは言い難い人工的な水色を宙に照らしていたのが完璧な失敗だったか。さっさと口に含んで胃に落としてしまえば良かった。それとも、不動の自転車がパンクせずに荷台に乗せて貰っていたのなら、風を切り僅かばかりの涼を得ながら気持ち優雅にアイスを食していたのだろうか。そう思うと、不動の思い込み通りこのパンクが誰かの悪戯によるものであったら犯人を懲らしめてやりたい気持ちがむくりと身体を起こす。だがそれは脳を疲れさせるだけの無駄な怒りだ。発露しようのない怒りは疲労となり春奈の肩にのしかかるだろう。その想像がまた彼女の気温による気怠さに拍車をかけて湧き上がった怒りを思わぬ方向に転がしていく。そう、世界中の至る所にある自転車の中、こんな日に限ってパンクするようなそれを所有している不動に対してだったり。

「不動さんって不運体質ですか」
「は?」
「だってこんな日に限ってパンクとか人為的な悪意以上に生まれつきの間の悪さが働いてるとしか思えなくないですか?」
「んな訳ねえだろ。ってかパンクの話すんじゃねえよ、また苛々してくんだろうが」
「他意はないですよ?私だって不動さんと二人乗り出来なくてこんな汗だくになってるんですから」
「あー、お前熱中症とかふざけんなよ?倒れたら置いてくからな」
「ああ、慌てて119番に電話して救急車で運ばれる私から離れることなく付き添って病院に駆け付けたお兄ちゃんに怒られてくれるんですね。不動さん優しいなあ!」
「……お前本当に大丈夫か?」
「頭的な意味で言ってるなら殴りますよ」
「自覚あるんじゃねえか」

 呆れた体の不動は会話の見切りをつけたのかぷいっと再び前を向いてしまう。春奈も残りのアイスを纏めて口内に掻きこんで、急激な冷たさによる刺激に耐える。無意味な会話の応酬の間に銭葵の垣根はとっくの後ろへと下がってしまった。そして気付く。先程花相手にくだらない思考に耽るほどの暑さによる倦怠感が少しとはいえ軽くなっていること。それは勿論気温が下がったということではなく、不動との軽快な会話が気分までも軽やかにさせたのだろう。彼が発した言葉は物騒な響きを含むことが多いけれど、先にも述べたとおり言葉の表面上の意味を真に受けて傷ついて彼を攻め立てるほど春奈の理解力は乏しくない。
 そして歩調を速めたつもりでもないのに、それまで不動と彼の明らかに後ろを歩いていた春奈との距離が縮まっている気がした。元々長い距離を挟んでいたわけではないけれど。たぶん、彼なりの配慮なのだろうなあと目星を付けた。乱暴な言葉を使った直後は、不動は自分に落ち込むことがあって、反省とか謝罪とか言葉に乗せにくいことを態度に示してくれる人だから。粗暴な言葉と春奈の体調の心配は表裏真逆の意味へと姿を変えて彼女の内側に正しく届く。そんな細やかなことを心から喜べる春奈だったから、不動の自転車がパンクしたことも悪いことばかりではなかったかなあと検討してみる。
 視界の先に映る積乱雲はあと数時間で夕立を連れてくるだろう。それまでに、どこか屋根の下に辿り着いているかしら。もし濡れ鼠になってしまったら、それはやはり自転車が使えなかった所為ということになるけれど、その時は雨水で溶けたアイスでベタベタになった手を洗い流せたと好ましく言い訳を述べ連ねてみよう。ただ、不動が自転車を押している所為で繋ぐことの出来ない手持無沙汰な春奈の片手を慰める言葉は今の所見つかりそうになかった。


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Title by『ダボスへ』





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