衣替えが終わり、雨天が続いたかと思えば真夏日を思わせる日差しが照りつけて、誰もがその落差に順応できずに苦悶の声を上げる校舎内。教室で友人たちと会話に興じている葵も、半袖のシャツを更に一度だけ捲って下敷きで風を起こしながらそれでも流れる額の汗を鬱陶しげにタオルで拭った。夏は白のシャツが透けてしまうから困ると言い募る友人たちの輪の中、去年まではそんなこと気にもせず麦わら帽子ひとつで真夏の日差しに打ち勝った気になって走っていた子どもが大半だろうにと思う。結い上げるには長さの足りない毛先が首筋に張り付いて鬱陶しい。前髪を留めるピンも、本来の用途を果たさずに腕に通されたシュシュもただ気温が高いと言うだけで葵の身体に馴染まずにいかにも付属品というべたつきをもたらしていた。
 教室内では同じように暑さを嘆く生徒で溢れかえっている。窓を開けても流れ込むのは生温い風で、廊下に倒れ込んだ方がよっぽど涼が取れるというもの。勿論そんなことすれば他の生徒の通行の邪魔になるし、教師にも怒られるしでお薦め出来る行為ではない。それでも、シャツの下にもう一枚着込んでいるからと言って、ボタンを全開にしてインナーを見せている男子の態度も葵には同じくらいお薦めしたくないだらしない行為のように思えた。性根がよほど真面目という訳ではないけれど、この年代にありがちなこれだから男子は、男の子ってやっぱり幼稚よね、といった保健体育で習うような女子の方が精神的成熟が早いという通説が葵にも当てはまっているらしく、人前である程度維持すべき礼節といたものを弁えないということが、ひどく不真面目な行いに思えるのだ。

「葵下敷き貸してよー」
「――うわ、天馬何その格好」
「仕方ないじゃん暑いんだからさあ」
「みんなそうだよ。怒られたって知らないからね」
「うるさいなあ、葵は俺のお母さんじゃないんだから良いじゃん」
「お母さんだったら私が怒ってるよ。制服のズボン折り曲げるとか考えなさすぎ」
「はいはいごめんなさい」
「呆れてるのはこっちだから」

 葵が女子の集団に混じっていることにも怖じずに、幼馴染という曖昧な根拠だけを頼りに天馬は彼女が団扇の代用品として使用していた下敷きを借りようと近付いて来た。その格好が、葵が丁度だらしないと侮蔑していたシャツの前が全開という格好であった挙句に制服の長ズボンの裾を折り曲げて捲っているというだらしなさ倍増の出で立ちであった為、葵は思わず口喧しいことだとは自覚しながらも物申さずにはいられなかった。葵だって、家に帰れば母親に注意される側に回るのだけれど、天馬と一緒にいるとどうしても普段母親に注意されているようなことを天馬に言ってしまう。それを周囲はまた世話を焼いていると笑うけれど、実際その通りで、しかし世話を焼くことを葵は当たり前だとは思っていないし望んでもいないのだ。だって天馬の隣に立つと形容に使用される言葉が「お母さん」だなんて絶対に不名誉だ。つい数か月前までは一緒にランドセルを背負っていた相手がどうしたって母と息子ほどの差を持つとは思えない。それでも、実際その呼び名が自分と天馬の関係に影響を及ぼしているかと言えばそんなこともなく。今更周囲に影響を受けるほどぐらつくような間柄でもない。天馬を応援すると決めた日から傍にいる時間が積み重なって今では幼馴染と呼ばれているけれど、あの頃から自分と天馬の間に在るものはひとつも変わっていないと葵は信じている。
 ピンもシュシュも、中学生になって少しずつ自分を着飾ることを覚える女の子たちに取り残されないように覚えていくもの。サッカー部の活動は楽しくて、ついつい熱を注ぎすぎると女の子らしくあることを忘れてしまうから。そんな女の子らしさを意識しなくても、天馬はいつだって傍にいるのだけれど。女の子だの男の子だのその差異を持ち出して相手に落胆する一面を見つけるくらいなら、今のまま穏やかにあれたらいいに決まっている。それでも先へ先へと押し出されるように進んでしまうのは自分か、天馬か。ふと、前に立っている天馬の足もとに目線を落とす。捲り上げられたズボンの裾は当然短くなっている。だけどいつか、天馬が男の子として成長期とやらを迎えれば、何をしなくともこんな風に丈を短くしてしまうのかと思うと、今から防ぎようのない寂しさに襲われる。その時を迎えても、自分は天馬の傍にいるだろうか。いれたらいい、いたい。心にぴったりとはまる言葉を探り当てるように、葵はじっと天馬のズボンの裾を睨んでいた。
 下敷きを貸して貰おうと、葵に向けて伸ばされた天馬の手に目当ての物が触れることはなく。眉を寄せて悶々と何事かを考え込み始めてしまった葵に天馬は首を傾げる。普段は前髪に隠れてしまっている双方の眉が、今日はその前髪がピンで留められている為彼女の眉間の皺と共によく見える。
 ――俺はピンよりカチューシャの方が好きだなあ。
 ピンについた小さな星形の飾りを見つめながら、天馬は自分の想像の中で葵にカチューシャを装着させてみる。そっちの方が可愛いと思うんだけどなあと内心でひとりごちながら、でも普段の葵の髪形も葵らしいと思うと自己完結。汗で張り付いたシャツが浮き彫りにする彼女の肩のラインだとか、腕に着けられたシュシュだとか、葵も女の子なんだよなあなんてことを今更再認識する。そんな、今更ながらに女の子だと確認した葵が、男だらけの部活で頑張ってくれていることが唐突に申し訳なくなってくる。別に、自分がいるからだとか、そんなことを改めて言葉にすれば流石に自惚れが過ぎるのだろうけれど。自分を応援してくれると宣言した日から当たり前のように傍にいた女の子が、唐突に自分より少しばかり先に立っているような気がして落ち着かない。天馬をだらしないと注意する葵は、一体自分をなんだと思っているのだろうか。周囲の人間が、自分と彼女の関係をどう形容しているかくらい天馬も耳にすることがある。母と息子、時には姉と弟。どれも葵を上に立て、暗に彼女がよく自分の面倒を見ていることを示している。そんな手間を掛けさせているつもりはないけれど、葵本人にもそう思われていたらどうしたものか。

「ねえ葵――」
「あ、ごめん。はい、下敷き」
「葵は暑くないの」
「暑いよ。部活前にもう汗だくとか嫌んなっちゃうよ」
「じゃあボタン開ければ?葵下にキャミソール着てるでしょ」
「嫌だよ、女の子だもん」
「…わっかんないなあ」

 こっそり、葵を自分と同じ位置まで連れ込もうとした作戦は失敗。自分を女の子だからと律する葵に対して、ならば自分は男の子だからと応じればいいのだろうか。果たしてそれは、幼馴染として必要なことなのか。葵から受け取った下敷きを彼女に向けて扇いでやれば気持ちよさそうに目を瞑って礼を言われる。この気安い間合いにいられる存在は、きっと自分だけではないのだろう。天馬が葵に話し掛けたことで気を使って距離を置いてくれた彼女の友人たちだって、きっとこれくらいのやりとりは容易く交わす。
 それでも、男の子でならば自分ひとりなのではないか。サッカー部の男子とは会話は交わせども戯れはしないだろう。記憶を振り返って、間違っていないはずだと自身に言い聞かせる。

「暑いねえ」
「暑いねえ」

 無意識に零れ落ちた天馬の言葉を真似して返す葵の前髪はいくら風を送ってもピンが邪魔をして揺れない。今度は私が扇ごうかという葵からの申し出を別に良いよと断る。暑いから下敷きを借りに来たというのに自分を扇がなくていいのかと訝しむ葵に、天馬は繰り返し良いんだと言い募る。

「だって葵は女の子だから」

 力仕事なんてさせられないよ。はたして風を送りあうじゃれ合いが力仕事に含まれるのかは怪しいが。突然の天馬からの女の子扱いに露骨に探りの目を向けてくる葵も、下敷きで天馬を扇ぐよりも部活で使用済みのタオルを洗濯槽から取り出して干場まで運ぶ方がよっぽど力が要るのだとは言い返さなかった。

「天馬も男の子なんだね」

 だから取りあえず、天馬の厚意を葵はこう表現して受け止めた。幼馴染だからではなく、女の子だから。そしてその女の子が自分だから。天馬の言葉にしない根底がそうあってくれれば良い。締め括って、葵は目を閉じる。風を受ける度に額にあたるピンの飾り部分が鬱陶しくてそれを外す。そのピンを手で弄びながら、これは後で天馬の鬱陶しい前髪を留めてあげようと思い立つ。だらしないとか、今更気にしても仕方がない。注意したのは自分だけれど、別に構いやしないだろう。そう割り切って、葵は次に天馬が送る風が止むのを大人しく待つことにした。


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ここには風があるよ
Title by『ダボスへ』




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