サッカーのスパイクを履かなくなった代わりに、ヒールの高いミュールを履くようになった。サッカーのユニフォームを着なくなった代わりに、雑誌でモデルが着ているような可愛い服を着るようになった。転んで擦り傷を作っていた膝はスカートの丈を測る際にしか目につかなくなった。男子なんかに負けたくないと汗も厭わず走り続けた時間は、歩いて時間が掛かっても良いから髪型や化粧が崩れないことを優先するようになった。すとんと私の心に落ち着いたひとつの恋は、私を子どもから女の子にしていった。 失くしてしまったのかもしれないし、何かを手に入れたのかもしれない。だけど間違いなく変わってしまったことがあり、私の足はもうボールを蹴る感触を思い出せない。張り合い続けたアイツはいつからか背中ばかりが印象に残っていて、伸ばし続けた腕はもうしんどくって下ろしてしまった。待ってて欲しいなんて思っていないし、声を大にして張り上げたってアイツは振り向いてなんかくれないだろうから、意地なんだか見栄なんだか、どっちにしろ碌でもない感情はするりと私の首を絞めてきた。 ――あのね、好きだったよ。だから負けたくなかった。 私がもう少しだけ素直だったら、そう言ってみたかった。三つ子の魂百までなんて言うけれど、つまりはもう手遅れってことでしょう。言いたいことが言えることと素直でいるということは果たして同一なのかしら。自分可愛さに考え込んで、でもどっちにしたって言えないよねと諦める。 整頓と選別、収納目的でぶちまけた荷物は足元を埋め尽くすのに、付随する思い出を拾い上げても心はどこか空っぽで寂しい。大人数の家族と収まった写真を詰めたアルバムなんて開いては行けなかった。アルバムだとか本だとか、作業の妨げになるなんてずっと前から知っていたのに。 明日までには必要な荷物を段ボールに詰めて新しい住居に送らなければいけない。今の持ち物全部を運ぶには場所も費用も嵩むだけだから出来るだけ大事な物だけを選んでから。取りこぼしたものを此処に残しておけるのならばもっと躊躇なく作業を進められたのだけれどそれも出来ないから、慎重になるのも致し方ない。 いつかお日さま園を出なければならないことはずっと前から知っていた。ここは私たちの故郷とも呼べる場所だけれど、私たちだけの場所ではないのだ。いつまでもなんて無責任な言葉を簡単に信じる人間なんてこのお日さま園にはいない。それは私だって同じことで、だけど一カ所に齧りつけないとは知りながら共に過ごした連中への絆なら絶対だなんて信じている。つまり私はお日さま園で出会った人たちのことが大好きだから、そうなるだけの思い出だって沢山ある。だから荷物の整理がいちいち思い出の回想に邪魔されたとしても仕方がないことなのだ。なんて言い訳しても、時計の針は止まってくれないのだから腹が立つ。 憤慨しながらも、足の踏み場もない床から逃れてベッドの上でアルバムを捲ることを止められないのだから自業自得だ。ノックされたドアに向かってどうぞと返事をしながらも、穂香や茂人だったらこの惨状に呆れられるんだろうと身構えていたら、顔を覗かせたのは想像とは違う人だった。 「晴矢?」 「おう、――ってお前全然荷物纏め終わってねえじゃん」 「うっさいなあ、持っていかなかったら捨てられちゃうってなったら誰だって慎重になるでしょ?」 「にしたってお前、それアルバム見てっからだろ」 「だって懐かしいんだもん、ほら、晴矢がプロミネンスのユニフォーム着てる写真だってあるよ」 「げっ、なんでそんなんがあるんだよ」 「記念にって撮ったじゃん」 「あー、あー、そうだったかもな」 ベッドと入り口では距離があるから見えないだろうに晴矢に向かって写真を突きだせば彼は構わず部屋に侵入してきた。もうちょっと足元を意識して頂きたいものだ。私の手帳を踏んづけたことに全く気付いていない様子でアルバムを覗き込んでくる距離の近さにどうして今更戸惑うのだろう。昔ならこれくらいどうってことなかったし、そもそも距離感なんて意識すらしなかったのに。 「そうだ、晴矢なんか用だった?」 「荷物、コンビニで出すって言ってたから纏め終わってんなら荷物持ちでもしてやろうかと思ったんだけどよ、無駄だったな」 「あっそう、ありがと。でも茂人に頼んであるから良いよ」 「――お前、茂人があんまり頼みごと断らないからって好き勝手使うなよ?」 「……そんなんじゃない!」 「んだよ、冗談だって」 荒げてしまった声はなかったことには出来なくて。私は直情的な自分の行動を恥じる。だって泣きたくなるの。晴矢が優しいと、本当はずっと好きだったんだよなんて心のままに伝えたくなるから。それだけは、必死に堰き止めて仕舞っておく。 きっと、伝えても良いのだろう。拒まれても、晴矢が私を傷つける意図を持って行動するはずないのだから。背丈の変わらない、性差も気にしないで駆けまわれた頃、何かとぶつかることもあったけれど。いつしか自然に開き始めた身長、力、足の速さも全部ひけらかして私を見下したりはしなかった晴矢は、私よりずっと先に大人になっていたのかもしれない。だからって、最後まで面倒見のいいキャプテンなんて徹してくれなくていいの。もう、終わったのだから。同じ舞台で同じ方向を向いていられた、子どもの時間は。 晴矢だって、あと少ししたらお日さま園から確実に去らなくてはいけない。その時、彼だってきっと今の私のようにここでの思い出を振り返らずにはいられないだろう。そうして溢れてくる記憶の中に、私はどれだけ姿を現せるのか。存在しないなんてことはないでしょう、だって凄く近くにいたのだから。 それなのに。 いつしか恋に変わった感情が、それ以前にはどんな名前を持っていたのか私にはもう思い出せなくて。晴矢なら、知っているかなと見つめても望む答えは貰えない。 「――ねえ晴矢」 「……ん?」 「晴矢がお日さま園出る時はさ、」 「うん」 「出る時は――」 「――杏?」 (私のこと、一番近くにいた女の子だって思ってほしいな) ぼたりとシーツに落ちた滴が何であるかなんて問う必要はない。涙の理由は晴矢が捲っているアルバムの所為にでもすれば良い。伝えたい言葉を飲み込んで、後悔すると知りながらも逃げようとする憶病さはそれも私らしさだと抱き締めよう。困ったように何か言おうとしている晴矢には、最後の最後にくだらない喧嘩なんてしないで済むよう笑いかけるの。間違いなんてこれっぽっちもないでしょう? 「……杏のメアドって交換した時から変わってねえよな?」 「――?…うん」 「変えるときはちゃんとメールで教えろよ」 「うん」 「そんで俺がお日さま園出る時はさ、」 「………」 「お前んとこ行くから」 「……何で?」 「好きだって言いに行く」 「――え、」 驚きで涙も引っ込んでしまった私に、晴矢は思った通りと笑いながら手を伸ばしてくる。サッカーをしていた頃から変わらず肩先に触れるか触れないかの長さの髪先に触れて、「変わんねえのな」と呟く晴矢だって特別目立った変化などないというのに。 「好き」と言いに来てくれると言った。では今受け取った言葉はどう処理すればいのだろう。聞かなかったことにして欲しいのだろうか。それはそれで随分と残酷なことなのだけれど、じっと絡まって解くことの出来ない視線は真剣なまま、逃げ出すなんてことは不可能だった。 「好きだって言いに行くから、返事はそん時までに考えといて」 「…なんで」 「だってお前、今は言いたくないんだろ?」 「―――!」 「自惚れんなって感じだろうけど、それくらいわかるっつの」 「…むかつく」 「はいはい、兎に角、俺がお日さま園出る時に好きだってまた言いに行くから、それまでにちゃんと覚悟決めとけよ?」 勝気な、サッカーの試合が始まる前の様な瞳。この瞳をこんな間近で見つめるのはいつぶりだろう。ひた隠して思い出に変えようとしていた恋をよりによって本人に見抜かれていたなんて恥ずかしすぎるのだけれど、そんな羞恥に負けないくらい予想外の展開に陥っている。 負けたくなくて張り合った。年齢を重ねて自然と生まれた差が悲しくて、だけどそれ故に自覚した恋を受け止めたつもりが諦めていた。家族として一緒にいた時間は消えないのだから、何も今以上を望む必要はないと言い聞かせていた。何より、私の気質が告白なんてことをさせなかった。 それでも晴矢のくれた言葉が、私を迎えに来てくれるという意味ならば、もう負けを認めたって良いのだろう。彼の言うその時までに、きちんと覚悟を決めておく。そしてちゃんと聞いてほしい。ずっと言えなかった、私の本音を。 「…さっさと迎えに来なさいよね、馬鹿晴矢」 「おう!」 鼻を啜りながら絞り出した言葉は、迷いない二つ返事で了承された。どうやらこれからも、私は晴矢の一番近くにいる女の子でいられるようで。それならば思い出ばかりのアルバムも、漸く放り出されたままの段ボールに仕舞えることだろう。 ――――――――――― 20万打企画/ヨリ様リクエスト わたしの知らない別れのうた Title by『告別』 |