「綺麗やなあ、」

 目の前に広がる夕焼け空を眺めながら、リカはうっとりとした表情で呟いた。無意識なのかもしれない。普段なら、俺に同意を求める言葉が続く筈なのに、今はそれがないから。隣りに立つリカの顔を横目に盗み見る。夕陽を受けて彼女の大きな瞳はどこか輝いて見えた。俺はそれを綺麗だと思うのに、声を掛けてやることも、すぐ近くにある彼女の手を握ってやる事も出来ない。
 沢山心配を掛けて、悲しませて、泣かせてしまった過去。今よりずっと子供だった頃、陽が落ちて夜になるまで家に帰らず遊んだ日。呑気にただいまと家の扉を開けると、そこには心配したと涙ぐむ母の姿があったりして、幼心なりにひどく胸を痛めたのを思い出す。もう心配は掛けないよ、悲しませないから、泣かないで。こんな誓いを、俺はもう何度も裏切った訳だけれど。
 リカは当然俺の母親などではなく、恋人だ。いつだって真っ直ぐに俺に好きだと告げてくれた彼女の気持ちを受け入れるのに、俺は随分と要らない紆余曲折を繰り返したものだ。

「ダーリン?」

 そっと、俺の鼓膜を揺らすリカの声が、言葉が心地よくてついうとうと瞳を細めてしまう。「んー?」と寝ぼけたような声を出す俺に、リカは大丈夫かと手を握る。触れ合った部分から移されるリカの温度が、俺の手の温度が思いの外低かったことを教えてくれる。
 自分から一歩踏み込むことはひどく怖いのに、こうしてリカが歩み寄ってしまえば後はもう手放してなんかやれなくて。握ってくる手を自分のそれで包み込んでしまえばもう俺とリカの距離がこれ以上離れることはない。

「リカの手は温かいね」
「子ども体温やからね」
「そうかなあ」

 離れた時間と距離、そして近づいた心にリカの感覚がどう変化していったのか。いつしかリカは俺の腕に纏わりつくことをしなくなった。リカの重みも熱も感じる事なく揺れる俺の腕の温度は、いつしか少しずつ冷えていたのかもしれない。リカは温かい。それは体温とか、言葉とか、仕草とか、全部。俺の傍で、真っ直ぐ俺を見詰め愛しいと囁いてくれる彼女の全てが、俺を抱きしめて温めるのだ。
 何度も言うけど、リカは俺の母親じゃあない。世界にたった一人の愛しい恋人だ。だけど、たまに本当に子どもみたいにリカにしがみついて泣き出してしまいたくなる時も、確かにある。ごめんねとありがとうをただ繰り返したくなる。だって、怖いじゃないか。あんなに、悲しませて、それでも今こうして並んで歩けるなんて、幸せすぎて怖くなる。
 すり抜けてしまわないように、リカの手を握る力を強める。きょとん、と数度瞬きをしたリカは直ぐに嬉しそうに破顔する。嬉しいのは、俺の方なんだけど、やっぱりそれは言葉にすることなど出来ないまま俺はリカに向かって微笑むんだ。

「ダーリン、今日は甘えん坊なんやね」
「……そんなことないよ」

 散々脳内では否定しているのに、リカがまるで母親みたいなことを言うから、つい俺は口を尖らせる。男の俺がしても全く可愛らしくないこの仕草を、リカだけは可愛い、と笑ってくれる。俺はこれを、愛だと信じ幸せと呼ぶ。リカが、俺が傍に居て隣りを歩く、たったそれだけのことを幸せと呼んだように。気持ちは、きっと同じだ。

「…ねえリカ、今日は一緒に寝ようか」
「…は?」
「あ、勿論変な意味じゃないからね?」
「ああああ、当り前やんか!」

 からかったつもりはないけれど、顔を真っ赤にして慌てるリカも可愛くて、俺はついつい笑ってしまう。それが悔しいのか、リカはもう知らん、と言って大股で俺の前に出て距離を開けようとする。だけど、それは叶わない。繋がれたままの手。そこに込めた力を、俺はこれっぽっちも緩めない。前に飛び出そうとした力と後ろから引き戻された反動でリカの身体は大きく傾ぐ。しかし見事なバランス感覚で直ぐに体制を立て直し俺を振り返っては先ほどの俺のように口を尖らせる。

「もー!ダーリン今日何か変や!」
「あはは、そんなことないってば」
「ウチの目はごまかされへーん!」
「えー?」

 繋いだ手をお互いぶんぶん振りながら他愛もない会話。車が来たらさり気無くリカを自分の方に引き寄せたりなんかして、それを察したリカが少し照れながらお礼を言ってきたり。いつも通りのありふれた恋人同士の風景に俺達がこうしていることを、俺はすごく嬉しく思うんだ。
 リカと結ばれてから、俺は結構ささやかな幸せに一々胸を打たれては唇を噛む。何を耐えるでもなく、俺は言葉にしてそれをリカに伝えては来なかった。ただ触れて、抱きしめて感じるだけ。稚い日々の先に今があり、その過程で俺は沢山の幸せをリカから奪って来たのだろう。この先、俺がリカに与えてやれるものが、その過去に勝る幸せである保証はないけれど、自信ならあるんだ。

『幸せにするよ』

 こんな台詞を、彼女の一生と引き換えに告げる時がきたらその時は。俺はきっと初めてリカに向かってありったけの愛を渡して伝えて抱き締めるんだ。幼子のようにこの内側から湧き出る気持ちのまま、きっと。
 だから、それまでは。こうしてリカと手を繋いで並んで歩いて。時折見つめ合って微笑むだけで良い。そんな日々が、続けば良い。二人だけが、二人の幸せの形であれば良い。
 自分の幼い思考を肯定するように息を吐き、俺はもう一度繋ぐリカの手を強く握り返した。



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幼子のように
一リカ企画『陽だまりの恋』様に提出。




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