四月の中旬を過ぎた頃。本来予定のなかった日曜日の午後を返上して秋は円堂宅に向かって歩いていた。途中通り抜けた公園に咲いていた桜は日々その花弁を風に散らしている。来週にも同じ道を通ったとしたらきっと桜蕊や葉桜を覗かせる木もあるのだろう。春は穏やかな風に身を任せて眼を閉じているといつの間にか置いてけぼりを食う時期で、実際は何かと忙しいものだ。
 もっとも、そんな季節柄を言い訳にしても今回秋の手を焼かせている人物の危なっかしさは年がら年中のことであると彼女も良く知っている。出会ってから何度かの季節を廻り、四季折々に刻む記憶の数は増えて離れる予定もないというのに秋はこの季節になると立ち止まり振り返っては懐かしいねと呟く。きっと、どれだけの日々を共に過ごしたとしても彼に、円堂守に出逢えた春という季節には、少なからず思い入れがあるということなのだろう。
 翌日の部活の練習が休みということもあったのだろう。昨日の円堂は部活が終わってもサッカーがしたりなかったと見えて、練習後未だ元気な何人かに声をかけて慌ただしく走って帰って行った。実際は、河川敷にでもよってサッカーをしていたのだろう。一日二十四時間という持ち時間は変わらないのに、一分一秒でも長くサッカーをしていようとする円堂の出会った頃から変わらぬ姿勢が秋は好きだった。ベンチに忘れ去られたジャージの上着を抱えて仕方ないなあと苦笑して、わざわざ洗濯して彼の自宅まで届けてあげようと思えるくらいには。恋ゆえの下心だというのならばそれも良い。ささやか過ぎる接点の積み重ねの行き着く先が穏やかな日常を飛び出さないとしても秋はそれで満足だ。

「守なら朝からサッカーしてくるって飛び出したっきりなのよ」

 円堂宅に到着し、呼び鈴を鳴らして顔を出した温子に要件を話せば息子の粗相に呆れた顔をしながらそう本人の不在を教えてくれた。いないならば仕方がないと、紙袋に入れていたジャージを温子に手渡す。円堂は自主練の時も大抵部活のユニフォームを着用しているが、今日は朝から暖かかったので上着の必要性を感じず、まだ昨日学校に忘れていったことにすら気付いていなかったのかもしれない。謝罪とお礼の言葉と共に秋から荷物を受け取る温子は世間話にと思ったのか、「あの子ったら今日もタオルと傘を玄関に忘れてボールだけ持って出掛けちゃったのよ」と苦笑した。

「今日は午後からにわか雨の予報が出てましたよね」
「そうなのよ。それなのにタオルすら持っていかないなんて困ったわ」
「あの…それじゃあ――」

 ついでだからという誤魔化しはなかなか通じなくて少しばかり心苦しかった。玄関の隅に秋が届けたジャージと同じように紙袋に入れられて置かれていたタオルと折り畳みの傘を、届けましょうかと申し出たのはやはり円堂に会いたかったから。本当は、円堂の家に届け物をしたら直ぐに帰るつもりでいたのだ。だから、秋は午後の天気の崩れを確認しておいたにも関わらず傘を持って出てきていない。しかも円堂はサッカーをしに行くとしか告げていないので、今どこにいるのかもわかっていないのだ。河川敷か鉄塔広場。秋に挙げられる候補地といったらこの二つくらいで、外れてはいないだろうと小さな確信を持っている。そして先に足を向けた鉄塔広場で見つけた人影に、秋の確信は少しずつ裏付けられていくのだ。
 円堂は木に吊るしたタイヤを相手に黙々と自主練に励んでいる。

「円堂君!」
「――秋?どうしたんだ?」
「おばさんからお届け物だよ。タオル忘れたでしょ?あと傘も」
「あー、そうだった!ありがとうな、秋!」
「どういたしまして」

 突然の秋の登場に驚きつつも理由を聞くと円堂はそうかとあっさりと笑顔で荷物を受け取った。だけどどうして秋が忘れ物を届けに来てくれたのか。事情を知らない円堂にはわからないことだけれど深くは追及しなかった。荷物を受け取ったと同時に降り出した雨がそれをさせなかったというのもある。
 さあさあと降る雨を避けるように円堂と秋は並んで木の下に潜り込んだ。春の暖かい空気の中に降る雨は冬のとは違い暗鬱な雨雲を引き連れては来ない。予報通りにわか雨だからなのか、空もそれほど暗がりには覆われず、気温も肌寒さとは程遠い。春なんだなあと感じ入る円堂の隣で、秋は残念そうに雨空を見上げていた。

「この雨で桜の散りが速まらないと良いんだけどね」
「ああそっか、桜はもう散り始めてるのか」
「この時期の雨は催花雨って言うらしいけど、変だよね。桜は散ってしまうわ」
「さい…か?なんだそれ?」
「この時期の雨は花が早く咲くように促してるんだよっていう意味の呼び名だよ。雨は花の父母なんだって」

 この間本で読んだのと、受け入りの知識の披露に照れたように微笑む秋に、円堂はただ凄いなと感心している。そしてまた空を見上げて、成程この優しい雨にならば、植物も恵みを貰い顔を出すかもしれないと納得する。桜は惜しくも散らされてしまうかもしれないが、花は桜だけではないのだから。円堂は、この先咲き誇る季節の花の名前なんて殆ど知らないけれど、きっともう何度も何気なく見かけて通り過ぎてきたのであろう花々。そんな花々にとってはこの雨は潤いをくれる貴重なものなのか。

「俺、雨ってあんまり好きじゃないんだ」
「サッカーが出来ないから?」
「うん」
「円堂君らしいね」
「でも今降ってる雨は見ててなんだか落ち着く」
「……?」
「朝からずっと練習してたからさ、ちょっと休憩しなさいって言われてる気がする」
「そっか」
「なんか秋みたいだ」
「へ?」
「いつも俺が無茶するとさ、秋が止めてくれるじゃん。仕方ないなあって笑ってくれる」
「お母さんみたいに?」
「それもある」

 聞き慣れた、言われ慣れてしまった秋を形容する優しい褒め言葉。「母親みたい」という言葉に含まれた彼女の暖かさを、円堂は決して否定しない。自分の言葉にどこか複雑そうに眉を下げて微笑む秋を横目に円堂は内心だけど、と首を振る
 ――でも秋は俺の母さんとは違うんだよ。
 秋が差し出してくれる優しさと母性の違いを、円堂はちゃんと理解している。休日だからと朝から家を飛び出す息子を、降水確率と所持品に傘の有無を確認して呆れながら本心では案じてくれる実の母親だって、こんな所まで自分に会いに来てはくれないのだ。秋だから来てくれた。仕方ないなあと微笑んで、謝罪も謝礼も何一つ自分に求めないでただ居てくれる。それが、木野秋という一人の少女が持つ優しさだ。これまで何度も円堂の無茶を見守るだけでなく受け止めて隣を歩き続けてくれた掛け替えのない少女。
 だから、もう一つだけ我儘が許されるのならば。秋がこうして隣に居てくれる理由が、彼女が優しいからだけではなくて。そこにいるのが円堂守だからであったら良いのにと思う。万人に差し伸べられる物ではなく、自分にだからこそ向けられる物であったのならばと願う。そんな無意識の独占欲に揺れ始めた心地で見上げた空は、既に雨を降らせてはいなかった。
 だから円堂は、届け物を終えてしまった秋がそのまま帰ってしまわないように。もう少しだけここに居てくれるように特訓の成果を見せようと木陰から飛び出してボールを蹴り上げた。拍子に足がもつれてぬかるんだ地面に倒れこむ。突然のことに慌てて駆け寄ってくる秋に大丈夫だと笑いかければ円堂の顔も服も泥だらけで。それを見た秋は、仕方ないなあと微笑みながら円堂の隣にしゃがみ込んで指先で彼の頬についた泥を拭ってあげた。
 ――円堂君に会いたくてここに来たんだよ。
 ――秋に帰って欲しくなくてちょっと焦ったんだ。
 伝えられない本音を隠すように笑いあう二人を見守るように、晴れ渡り始めた空にはうっすらと虹が浮かんでいた。


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