※パラレル

 京介がその古びた神社を訪ねる時、彼女は決まって境内にある社殿の裏に植わっている古い桜の大木の枝に腰かけていた。春の柔らかな風に乗って舞う桜吹雪の中、京介の名を呼び零れる笑顔は木々の隙間に差し込む光の所為で影となってはっきりと見えない。それが、目の前にいる彼女の姿がまるで幻で、不意に強まる風に目を閉じれば次の瞬間少女は忽然と姿を消してしまうのではと、彼に微かな恐怖心を抱かせていた。そして、そうすることも出来るのよと微笑んだ少女は軽々と京介の隣に降り立った。自身の名と拠り所とする花の名を違えた少女は、はらはらと散る花弁の中、何よりも煌びやかに微笑んで京介を惑わしている。


 少女が名前を貰ったのは、ほんの数年前のことであるという。この神社に仕える巫女の親戚として預けられている少年と遊ぶようになってから、名前が無くては不便だろうと授かったのが始まり。
 ――葵、君の名前は葵だ!
 満面の笑顔で与えられた名を、少女は二つ返事で頂いた。その瞬間から、彼女は葵という個を得、この桜の大木にのみ宿ることとなるのだが、当時は無責任に名を放った天馬は勿論、その影響を一身に受ける彼女すらそんな因果には思い至らなかった。そもそも天馬は、少女が桜の精であることをまず知らなかった。知っていたら、葵なんて名前を贈ったりはしなかったろう。その名の由来は、桜とはまた別にこの神社の至る所に繁殖していたフユアオイから捩られているものだったから。冬にも花を咲かすというその花を選んだのは、少女の笑顔に対する天馬の情が無意識にそして多分に含まれていたものだった。
 それまで桜という木々の間であれば自由に存在を飛ばせた葵は、天馬に名前を貰ったその日から、一本の桜にしか宿れなくなった。外の世界を閉ざされてしまったことは正直退屈と言わざるを得ない。名を贈った天馬は後にその事実を知った時、驚くほど申し訳なさそうに俯いて謝罪した。だが葵という名を受け入れたのは少女自身で、唯一の友からの贈り物が嬉しくなかった筈がない。少女の姿は、誰に彼にも視認することが出来るものではなかった。可視不可視の基準は葵自身も測れない。そもそも人間と接触を持とう等と思うこと自体が稀有なのだ。交流を持ったことはないが、この神社を預かっている巫女もまた幼い頃ならば葵を見かけたことくらいはあるかもしれない。今はその気配を感じることが出来ても触れたり会話することは出来ないだろう。とすれば、可能性があるのは幼い子どもということになるが。神社とは神聖な半面異形の物を呼び寄せやすい気を常々保っている場所である。率先して人目の着かない神殿の裏まで足を運ぶ参拝者など、そうそう現れはしないというのが葵の古い記憶から導き出した結論だった。
 葵が天馬との交流以外の楽しみを断たれて暫くした頃、天馬が友人と称して一人の少年を連れて来た。名を京介というらしい。連れて来ても、見えなければ遊べないのに。桜の枝に腰かけながら、葵は天馬と京介をじっと見降ろしていた。これで京介に自分が見えなければ、変な目で見られるのは天馬だというのに。彼は自分が当たり前のように接している葵が異形の徒であるということをこうしてあっさりと失念するから頭が痛い。人間でない自分の方が人間の大衆心理に長けているなんて何ともおかしな話である。
 だが葵の予想を裏切って、京介は天馬の指さす葵の場所を見上げると、真っすぐ彼女と目を合わせた上でぺこりと頭を下げて見せた。この神域に何の縁も持たない人間が自分を見つけた。その事実は葵を驚愕させ、うっかりと手を滑らせてしまった。当然、かなりの高さから地面に向けて落下した。存在が縛られても本質は変わらず精霊である為、物理的な衝撃を受けることはなく怪我もない。だが姿形が人間をかたどっている以上、目撃してしまった人間からすれば衝撃的な映像だ。慌てて葵に駆け寄って来る天馬と京介の顔を見詰めながら、彼女は心配いらないと微笑む。それは、天馬が花の名前を贈りたいと思わせた愛らしい笑顔。正面からそれを受け止めてしまった京介の頬にさっと朱が走ったのを、生憎この時は誰も見咎められなかった。


 この出会い以来。京介は天馬に誘われずとも葵の元を訪れるようになった。葵もまた天馬がいない間のどうしようもない孤独な時間を埋めてくれる京介を、疑うことなく歓迎した。天馬と同い年だという彼は、天馬より心身の成熟が少しばかり進んでいて、葵が天馬と楽しんでいる遊びをどこか窮屈そうにこなしていた。小さな花畑に座って花冠を贈り合うことも、草履を放って明日の天気を占うこともしない。ただお互いに触れ合ってじゃれてまどろんで陽だまりの内で眠りこけることも慣れないのだという。では京介は普段何をして遊んでいるのだと尋ねれば家の仕事を手伝ったり、兄と一緒に本を読んだり、鞠を蹴って奪い合ったりと、葵にはおよそ楽しそうとは思えないことばかりをしているらしい。

「京介は私と全然違うのね」
「……そうだな」
「でもね、お願いだから此処にいる間は私のしたいことを一緒にして頂戴。花冠の作り方だって教えてあげる。どれだけ遠くに草履を放ったって絶対に私が見つけて来てあげるし、私は人間の女の子じゃないから京介とじゃれたってもみくちゃにされることもないの。外でお昼寝しても風邪をひかないようにちゃんと私が花弁のお布団で覆ってあげるよ」
「ああ、わかった」
「本当?ありがとう!その代わり、来年は京介のしたいことをしよう?その時は、私の知らないことを京介が全部私に教えてね」
「――来年?」
「そう、来年。京介が私と遊べるのは、この大木が花を咲かせている間だけなの」

 葵の言葉に、京介は驚いたように目を見開いた。その反応に、葵は天馬から聞いていないのかと首を傾げた。だが、彼のことだからまたしても様々なことを失念しているのだなと思い至る。
 桜の精である葵の命の循環は基本的にその依り代である桜の大木と同じように巡る。全盛期とも呼べる春に於いてのみ葵は自由にその姿を顕現させることが出来る。青葉の頃は、太陽の光と風の具合によってまちまちだ。秋から冬にかけては眠っていることが多い。だが、葵に名を与えた天馬だけは彼女の姿が見えずともその存在を感じ取り会話することができる。それ故に、天馬は自分の当たり前を基準とし京介との違いを見落としたのだ。葵と何の縁も持たない京介は、この春が過ぎれば次の花吹雪が乱れるまでいくら目をこらそうとその枝に彼女を見つけることは出来ない。

「桜が全部散ったら、お前は此処にいないのか?」
「ううん、私はいつだって、いつまでだってこの桜と共にいるの。でも京介には見えない」
「来年の今頃まで?」
「うん。でも来年になっても京介がまだ私を見つけられるかもわからないね。それに、京介は一年を健やかに過ごして成長するけど私はずっとこのままだから」
「……」
「知ってた?私と天馬が初めて会った時は、私の方が見た目もちょっとだけお姉さんだったんだよ」
「お前は…葵は、寂しくないのか」
「寂しくないよ。花は廻り続けて咲き誇るものだから。でもそれってやっぱり私が人間じゃないってことなの。気味悪いと思ったら、もう此処にはこない方が良いよ」
「何故」
「桜は人の心を魅入るのが得意だから」

 お前は葵なのにな。なんて茶化せる空気でもなければらしくもない。沈黙は迷いでも葵の言葉の肯定でもない。いつでも自分を手放せると微笑む彼女への抵抗だ。葵が手にした花冠に編まれた花の名を、京介は知らないけれど。尋ねる気すら起きなかったというのが正しくて、天馬を介さない葵との繋がりが逢瀬の回数を重ねればそれだけ強まるのだと単純に考えていた。葵が人間でないことなど初対面の時にあっさりと打ち明けられて、それなりに葛藤して受け入れたつもりだったのに。成程、人と異形が慣れ合えないのは、人間が普通に想い描く添い方をどうしても選べないからなのかもしれない。
 来年。京介がまた葵を見つけられるかは分からないと彼女は言った。だが、意地でも見つけてやろうと思う。何も知らず無碍に過ごしたこの春を悔いながら、またこの春を心待ちにする。花が誇らずともこの桜を探して会いに来るのだ。またの再会を迎えるまでに、きっと彼女の様に花冠を作れるようになろう。彼女が困るくらい遠くまで草履を飛ばせるように練習するし、少女の見た目に戸惑わずに優しく触れよう。人目など気にせず陽だまりに抱かれて眠る心地良さを覚えよう。

「約束だ」

 ぽつりと絞り出した言葉に、「期待しないで待ってるね」と微笑んだ葵の笑みが一瞬霞んだ。差し出された花冠を受け取って、おざなりに頭に乗せて見せれば益々嬉しそうに彼女は笑みを深くする。
 ――花みたいだ。
 いつだったか。少女に名を与えた少年と同じことを知らない内に思っていた。そして、花冠を作るのに余ってしまったまま葵の膝の上に残っている花を見る。名も知らぬ花だけれど、何故だかとても彼女に似合っていると思った。宿る薄桃色の花よりもずっと。その花こそが、少女が頂いた名を表す花だということを、やはり京介は知る由もなかった。


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君が死んだ季節が終わる
Title by『告別』




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