優しく頭を撫でる手を、母親の様だと思ったことはない。無論、姉の様だとも。彼女は出会った頃から今までも変わらず他人だった。仲間のように一つの目標に向かうこともなく、家族のように無償の愛と甘えを許すような存在ではなかった。そうやって他として色濃い線引きを成すことが出来るから恋しく想えるのだ。だから。
 だから雨宮太陽は、出会った頃から変わらず遠く優しい他人の冬花を、やはり変わることなく恋しいと思っている。


 もう直ぐ退院ね、と冬花が嬉しそうに微笑むのは、彼女の優しさではなく看護士としての達成感と安堵なのだと、太陽はここ数日の間に諦めを付けた。出会った場所が病院で、看護士と患者という関係である以上、別れのパターンなど初めから解りきっていた。ただそれがいつになるかということが不透明すぎて、幼い太陽の心には何かと負荷が大きかったが。
 サッカーだけで生きていけるのなら、こんな白い箱部屋なんておさらばして青空の下に駆け出していきたい。紛れもない本心と衝動に従って動けば、はっと気付いて振り向いた場所にはきっと誰もいないのだろう。病気の自分に価値など無い。そう弱気かになる自分を、病気を肯定出来ないままに生に繋ぎ止めるには此処には冬花がいるから頑張りなよと激励してやるのが割と効果的だったから、太陽は早い段階から自分が冬花に向ける感情を恋と呼んだ。
 誰かは憧れだと諫めるだろう。四六時中家族と会えない寂しさを埋める疑似家族として冬花を母や姉と見立てているだけだと憐れむだろう。だがそんな他人のもしかしたらの正論など太陽は求めていない。自分が恋と呼んだ気持ちは、恋以外の何物でもない。伝える予定のない気持ちは捌け口を求めない。相談という名の気持ちの吐露は抱え込んだ気持ちを俗に落とす行為のように思えた。己の内に抱えてさえいれば果たしてそれは神聖なのか。そんな訳ないだろうと頭を振って自嘲する。

「太陽君?どうしたの難しい顔をして、具合悪い?」
「まさか、もう退院するんだよ?身体の調子はすこぶる良いよ。ちょっと考え事してたんだ」
「そう?なら良いけど」

 心配そうな表情のまま両腕で抱えたボードに僅かながらも力が籠もるのを見ながら、太陽は心中で何も良くないよと冬花の言葉に噛み付いた。いくら退院を残すのみとはいえ実際この部屋を去るまでは太陽は入院患者だ。看護士である冬花は彼の体調を検査する義務がある。その結果が太陽には見えないあのボードの内側には書かれているのだろう。
 記述された文字が太陽の健康を証明する度に彼は退院へと近付ける。それを冬花が喜んでくれることへの感謝は勿論持っている。しかし太陽が此処を去ることが下手をすれば永遠の別れにすらなりかねないことを、冬花は微塵も憂いてはくれないのだからやるせない。病院で出会った患者と二度と会わなくて済むというのは、字面だけなら多少残酷とはいえ医師や看護士からは最大の願い事ともいえる。健康に、医療機関と無縁に生きられるならばそれに越したことはないのだから。
 だけど冬花は看護士として働くだけのロボットではない。彼女には太陽と触れ合うこの病院以外での日常がきっとある。あくまで仕事場でしかないこの場所は冬花にとってどれほどの比重を占めているのか。更に、その中で自分がどれほどの比重を彼女の内で占めているのか。太陽には全く自信がない。だから知りたいと思う反面、いつまでも子供じみた我が儘を繰り返してでも、上辺だけでも冬花の気を引きつけていたかった。病室を抜け出して。サッカーボールを片手に一人遊びに興じる虚しさを拭ってくれるのはいつだって冬花の穏やかな怒声だった。
 ――さっさと退院してサッカーがしたい。
 太陽の口癖にもなっていた願望を聞き続けたのは、きっと冬花だけだろう。太陽は、彼女以外の前では普通の聞き分けの良い患者を演じていたから。それ以上に、担当医と担当看護士であった冬花以外に太陽は顔と名前を一致させるほど付き合いを深めた相手がいなかった。そんなことすら冬花にとっては興味の範囲外なんだろうと思えば、太陽はますます外への接触を消極的になって行った。冬花との交友は増えずとも、自分の中で他者を排除していけば数少ない人間の占める割合が増加したかの様に錯覚出来るから。

「冬花さんは僕が退院したら今度は誰の担当になるの」
「…どうしたのいきなり」
「別に。ただ次に冬花さんが担当する人が凄く大人しかったら僕よりずっと手が掛からないとか比べられたら嫌だなあと思って」
「そんな比較しないよ」
「僕のことなんて忘れちゃうから?」

 拗ねている、或いは駄々をこねている。冬花は太陽の言動をそんな風に感じただろう。未練など在るはずもなく、名残惜しさも有り得ない。なのにどうしてそんなことを言うのだと、冬花の深い瞳に問われても太陽は応えられない。貴女に執着しているんですとか言えない。
 実らない恋だと思う。ぶつからなくとも障害ばかりの恋だと思う。年齢差とか、立場だとか。だがその障害を打ち壊すだけの奇策を持ち合わせない自分の無力さを思い知るのが一番恐ろしかったが故に太陽は必要以上に子どもぶる他手段を知り得なかった。素直に言葉に出せなかった「好き」は、果たして誰の口をついて紡がれたならば冬花の心を揺らせたのか、太陽はやはりそれを知りたくないと思う。
 ――弱虫!
 詰ったのは、己自身。そんな弱虫を励まして抱き締めて甘やかしてきたのもまた。やんなっちゃうねと諦め混じりに浮かべた苦笑を、冬花はまた太陽の頭を撫でながら「折角退院出来るんだから、その後のことは気にしないで良いのよ」と正論尽くで彼を諭しながら黙らせた。それに言い返せない太陽は誰よりも幼く彼女の正しさを知っている。振り向くべきではない。やっと走り出せるのだから。それでも、此処に変わらず冬花がいるのならば自分は何度でもこの場所での記憶を繰り返しなぞるのだろう。酷ければ、足さえ向けてしまうかもしれない。
 太陽の葛藤など知る由もない冬花は、元気になった太陽が足繁く此処に通えば当然眉を顰めて怒るのだろう。だけど、それすらも自分が忘却の彼方に追いやられていない証だと歓喜してしまうに違いない。どうしようもない、仕様もない、それ故に抗えない気持ちを抱えたまま太陽は未だ自分をあやすように撫で続けている冬花の手の温もりを刻もうと目を閉じた。
 やはり太陽は、冬花にどんな名医でも救いようのない恋をしている。


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死すべき愛情だったとでもいうのか。
Title by『告別』



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