置き去りにした筈の何かが、不意に視界の端に引っ掛かる。思わず目で追い駆けてしまうなんてこともないから、きっと大したことではないのだ。そう意識する時点で捕らわれてしまっているなどと諭してくれる人などいはしない。だってこれはあくまで彼の心の中だけの話だから。

「守君といると、時々とても悲しくなるよ」

 そう寂しそうに、円堂に背を向けながら呟いた冬花に、彼は何とも掛ける言葉を持っていなかった。昔から、相手の心を推し量って立ち回ることだけはうまく行かない。恋人なんてたった一人の相手のことすら、碌に満たせないのなら、これまで自分と肩を並べて歩いてきた誰もが彼女のような寂寞を抱いていたのだろうか。言葉が見つからないなら抱き締めてやれば良かったのかもしれないなんて、今になって思うけれどそのどれもが過去だから無駄でしかないのだ。
 冬の曇り空の下、公園のベンチで飲み干した缶コーヒーをゴミ箱に放り投げる。他の物が入っていなかったのか金網状のゴミ箱の底に叩きつけられたらスチール缶は思った以上にやかましい音を立てた。昼間の、本来公園を占領するべき子ども等はまだ姿を見せない時間帯。大の大人が一人ベンチに腰掛けているだなんて、あらぬ誤解を受けそうだと苦い笑いを噛み殺す。
 冬花から悲しくなるよと、円堂からすればそれこそ悲しい言葉を貰った翌日。やはり自分は色恋には向いていないのだと自棄にも近い気持ちを抱え始めた。好きだから一番近く、深くにいるつもりで。また相手を同じ様に置いているつもりだったけれど。結局それはつもりの域を出ない独り善がりだったのかもしれない。
 好きだとか、愛してるとか、言葉を恥じらうタイプではない。ただどんな時に愛の言葉を囁くのが正しいのかが円堂には分からない。他人に教えを請うのは、何だか場を操作するようで、心からの言葉だとは相手にも伝わらないような気がする。抱き締めたり、キスをするのは相手に触れることだから、それを拒まれない日々に安堵して馴れきっていた部分もある。だってそれが当たり前で幸せなのだと疑えなかった。疑っていては愛せないのだから。
 己の内にある愛しさだけは揺るがないのに、冬花に向かい合う勇気だけはあっさりと揺らいで萎んでいく。昔に比べて年々弱くなって行くようで情けなかった。大人になったのだという誰かからの慰めは、思った以上に役に立たない。
 喧嘩未満の、擦れ違いにもならない現状を、円堂はただもどかしいと感じている。摩擦以前に、触れ合うことを躊躇わせる言葉を貰っただけ。悲しくなるなんて言われても、その内側にこんなにも一緒にいるのに、これからもいたいのにという嘆きを聞き取ってしまっては離れるなんて選択肢は端から存在出来なくて。こうして昼間の公園で手持ち無沙汰に座っているのも、冬花との待ち合わせまでの時間潰しに過ぎないのだ。

「…守君?」

 園内の時計をぼんやりと見上げていた円堂を呼ぶ声。この呼称すらきっと彼女だけのもの。視線を巡らせばやはり冬花が公園の入口に立っていて、不思議そうに円堂を見ていた。手にはスーパーの袋が握られていて、今日は夕方まで仕事ではなかったかと思いながらも駆け寄って、無言のまま彼女の手から袋を奪い取った。

「今日は午前中までだったの」
「間違えてた?」
「うん。うっかり」
「そっか」
「守君は何してたの?」
「冬っぺの家行く時間までぼんやりしてようと思ってた」
「ええ?約束してた時間までまだ何時間もあるのに?」

 だって他に思いつかなかったのだと、自然に冬花宅の方へ歩き出しながら、円堂は困ったように笑った。昔なら、一時の暇さえ持て余さずにボールを追い駆けたものだけれど。それはもう、昔でしかないから。円堂が諦めたように昔の自分を突き放したような言動をする度に、冬花は悲しそうに眉を寄せるけれど、こればかりは時間の経過故のことだから仕方ないのだと、円堂にはどうすることも出来ない。
 だからと、また自然と冬花の手を握ったけれど、渡し合う温度は心地良いだけで何も変わりはしなかった。そっと握り返された手に傾いていく意識。いつからこんな当たり前に手を繋いで歩くようになったんだっけ。思い出そうとしても、愛しさと無邪気さの触れ合いの境界は曖昧で。円堂は明確な記憶の切り取りを諦めた。

「守君」
「んー?」
「守君とこうして手を繋いだり、一緒に並んで歩いたりしてるとね、何だか時々本当に悲しくて、泣きそうになるの」
「………」
「でも誤解しないでね。悲しいのは、嫌だからとかそんなんじゃないんだよ」
「うん」
「失くしたらどうしようとか、あんまり幸せだといつか罰が当たるんじゃないかとか。何でかは解らないけど、そんな風にばかり考えるの」
「そっか」
「ねえ守君、守君には。守君には私が今とっても幸せだってちゃんと伝わってるかな?」
「ああ、大丈夫だよ」

 悲しいのは幸せだから。そうして泣きそうに声を震わせる冬花の心に満ちるのは円堂への愛だった。
 ――なあ冬っぺ、それって悲しいんじゃなくて、愛しいんだよ。
 正しい言葉を導きたくて、伝えるべき真実は円堂の喉に引っ掛かって出て来てはくれなかった。鼻の奥がつんと痛んで、慌てて空を見上げた。不思議そうに円堂を呼ぶ冬花は、長い間自分の隣を同じ歩幅で歩いてきたものと思っていたのに。いつの間にかこんな小さく愛しく感じるだけの差が生じていたのだ。
 ――見落とさなくて良かった。 沢山の物を置き去りにして来たのだろう。走り回る時間を最たる物として。だけど、今でも手放さずにいる、隣に立つこの冬花だけはこれからも置き去りには出来ない。愛しさに怯える彼女の不安毎拭う為に、安くとも心の底から誓おう。永遠ではなくとも、この先自分が生ける時間全てくらい容易く賭けられる。
 でも、スーパーの袋をぶらさげた公園の帰り道に告げるのは雰囲気が宜しくないということは気の回らない円堂でもはっきりと理解出来たから、冬花に笑いかけるとまた歩き出した。少しだけ歩調を速めて。彼女の自宅に着いたら、いの一番に抱き締めてやるのだなんて円堂の決意を、冬花はまだちっとも知らない。


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足りない色を君にあげる
Title by『Largo』



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