形容するならば上司にあたるイシドシュウジが目を掛けている雨宮太陽の様子を見に行くと言い出したので、彼を自らの運転する車で送り届けた後、虎丸は車に残り少しだけ持ち出して来た書類の処理を行っていた。それほど時間が過ぎた気はしないけれど、虎丸が書類の処理を終えてもまだイシドが戻って来る気配はない。ぼんやりと病院の入口の様子を伺っていると、ふと数人が出てくるところだった。複数人という時点で虎丸の待ち人ではないのだが、暇つぶし程度に観察してみる。
 どうやら入院していた子どもが退院するのを迎えに来た両親の図、といった所だろう。両親の間にいるらしい子どもは虎丸からは死角で、時折来ている衣服の端々が見えるくらいだ。嬉しそうな雰囲気が遠目にも伝わってくる。この病院で臥している雨宮があの子のように嬉々とした表情でこの病院を後にする日が果たして来るだろうか。悲観的に向かいかけた思考は直ぐに断ち切られることになる。親子の後から、退屈な入院生活を終えた子どもの検討を讃えるように、見送りの為にひとりの看護士が姿を現したのを見て、虎丸は思わず車のクラクションを鳴らしてしまいそうになった。

「――冬花さん」

 懐かしい名前を、車内で呼んだ。当然、誰にも聞こえることはないだろう。子どもの目線に合わせるように屈み込んだ彼女は頭を撫でながら微笑んでいる。手を振って、二言三言両親と会話をして、最後に頭を下げて親子は今度こそ病院から去って行った。
 冬花が一人になったと認めた途端、じっと我慢することが出来なかった。何を言おうとも考えず、ただ車を飛び出して、鍵も掛けずに冬花が院内に戻ってしまう前にと大声で名前を呼んで引き留めた。その声は、彼女の耳にも届き、驚いたように虎丸の方を振り返る。そして、虎丸の姿に気付いた途端、また驚きで大きく瞳を見開いた。小さく唇が動いたけれど、ちゃんとした音にはなっていない。だがきっと自分の名を呼んだのだろう。冬花が驚きのまま混乱している間に、彼は彼女の真正面まで距離を詰めて立った。
 冬花の身長は最後に会った時と全く変わっていない。もう随分と昔に抜かしてしまった、そんな小ささだった。それでも入り込めない懐はいつだって温かくて深くて、虎丸を子ども扱いしてきたのだ。愛しさを訴える虎丸を、いつだって慈しむような瞳でばかり見つめ返して来た人。

「お久しぶりです、冬花さん」
「うん、久しぶりだね虎丸君」
「この病院で働いてたんですね」
「うん。……虎丸君は、もしかして太陽君の様子を見に来たの?」

 咄嗟の言葉に、何と返していいのかわからなかった。馬鹿正直に雨宮太陽の様子を見に来たのはイシドシュウジなんですよなんて言えるわけもない。返答に窮している虎丸に、深い意味はないのだと場を誤魔化す為に、冬花は少しだけ世間話としていくつか自分の近況を話してくれた。そしてその中で初めて虎丸は冬花が雨宮を担当している看護士だと知った。虎丸が悲嘆するよりもずっと近くに縁というものは転がっているモノなのかもしれない。
 ぽつりぽつりと言葉を吐き出しながら、そろそろ話題が尽きるのではと思う頃になっても、冬花は虎丸の現在を尋ねてこようとはしなかった。言葉数の多い女性ではないから、聞き役に徹する方が楽だとも思っている彼女が。だから虎丸は彼女の意図を簡単に察することが出来た。
 ――ああ、知っているんだろうな。
 今の虎丸を。彼が誰の傍にいて何をしているのかを。目的までは理解できなくとも。悪だとは断じない瞳が、現状だけを見てただ悲しいと虎丸に訴えてくる。普通に年月を重ねていれば、いつからか冬花が看護士を目指してその夢を叶えたように彼もまたサッカー選手を目指していた筈なのだ。それが無理なら、母親の店でも継ごうかななんて、自分の実力さえあれば抱く夢が不可能ではないと自身に満ちていた頃の虎丸を、冬花は誰よりも近くで見て来たのだから。
 サッカーを中心に置いて出会った子どもらが、やがて大人になって離れて行く者もいるのだと現実を知り始めた時。冬花は虎丸に羨ましいと言った。男の子は、きっといつまでもサッカーボールを追い駆けて行けるんでしょうねと。それはやはり人によってだろうと虎丸は思ったけれど、冬花の言いたいことは男子全般への羨望ではなかっただろうから黙った。自分だけではないけれど、自分がこれから歩いて行く道が沢山の人と出会い一番変化を迎えた頃とでは想像し得なかった方向に向かっていくことが怖くもあったのだろう。プロサッカーを目指す人間やまたその指導者を志す者とは違い、いつまでもサッカーにばかりかまけている訳にはいかない時期を冬花は通り過ぎて来たのだ。その過程で、少しずつ虎丸とは離れて行ってしまった。それでも最後まで虎丸がボールを蹴る姿を眩しそうに見つめていた彼女の瞳が好きだったから、虎丸は変わらず己の夢を追おうと決めた。決めた筈だったのに。
 裏切ったのだろうか、自分は。あの頃の冬花を。一番大切だった女性を。だが自分だけは裏切っていないと胸を張るのは、開き直りというものなのか。
 冬花は決して咎めない。個人が選ぶ行動の結果はその個人のみを形作る。自分の意見など、無関係でしかないと割り切っている。その控え目なのか、無関心なのか判じ難い境界線が、虎丸にはいつだって越えることの出来ない壁だった。

「冬花さん、俺、今でも貴女が好きです」
「――虎丸君」
「今は、伝える以外に動きようがないですけど、それでも想ってます」
「そう、」

 何も変わってはいませんと付け足した言葉に込めた願いは、冬花には届いただろうか。届いたとしても、彼女が確かに伝わったよなんて分かりやすい反応をくれるとは思っていないけれど。だけど、好意を伝えてもあの頃受け続けた姉の様な、母の様な眼差しがそこに無かったことは、思わぬ形で虎丸が大人になったことを両者に突き付けていた。

「全部が終わるまで、もう私に会いに来ないでね。全部が終わるまで、私は絶対虎丸君に優しくなんてしてあげないからね」

 小さく微笑んで、冬花はそのまま踵を返して建物の中に戻って行った。愛の告白をした相手に取る対応としては突き放されたとも思えてしまう別れの言葉は、思ったよりも彼を落ち込ませはしなかった。
 ――全てが終わったら良いんですよね?
 もう直ぐ、何もかもが終わる筈だから。そうしたら、また昔みたいに彼女に駆け寄って愛を訴えて子ども扱いされたってその小さな身体を抱き締めたって良いんですよね。心の中でもう見えなくなってしまった背中に唱える。聞けなかった告白の返事は、その時にきっと貰おう。
 タイミングよく院内から出てきたイシドに、反射的にお帰りなさいと出迎えれば彼は虎丸の顔をしげしげと眺めて「嬉しそうだな」と不思議そうに尋ねて来た。虎丸は苦笑しながらそんなことないですよと答えながら緩む口許を抑えきれないでいた。次の再会は、きっともう遠くはない。


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あなたへつづく半券
Title by『ダボスへ』





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