閑散とした昇降口で、冷たい掃除用具ロッカーに寄りかかってから、もうどれくらいの時間が経ったのだろう。きっと数分。体感時間はひとりきりだといつも周囲とずれ込むから嫌だと葵は俯いた。待ち人なんていつだってたったひとり。幼馴染って待ちぼうけの為の肩書きだったっけ。そんな訳ないわと頭を振っても人気も明かりもない薄暗い場所は心細さしかなかった。 部活が終わってから今日中に提出しなきゃいけないプリントがあったんだと慌てふためく天馬に待ってるから早く職員室に行ってきなよと送り出すのはいつだって葵の役目だった。今の所、その座を誰かに脅かされたこともない。脅かされたらどうしようなんて思考そのものがそもそも葵には存在していなかった。だって松風天馬の幼馴染は空野葵ただひとりなのだから。 そんな意地の中に好意があるかを考えたことはない。だが独占欲ならあると葵は気付いている。例えば、廊下ですれ違う葵の見知らぬ女の子に「サッカー頑張ってね」と声を掛けられて、とびきりの笑顔を添えて礼を言ったときは何故か胸だか腹だかが痛んで、思わず保健室に行ってくると踵を返してしまった。結局いざ保健室の戸の前に立ったら先程の症状はすっかり消えていて、葵は自分の身体ながらにどうしたことかと首を傾げながら教室に戻った。そして先に帰っていた天馬が駆け寄ってきて見せた心配そうな顔と、廊下で見た他人に向けた笑顔が過ぎり葵はこれがヤキモチかと妙に納得した。 名も知らぬ女子に、貴女の応援なんてなくとも天馬は頑張るに決まってるじゃないなんてとても言えない。だが確かに言いたかった醜い言葉に、葵は恥ずかしくなってしまった。自分に向けられたら言葉でもないのに。悪意や皮肉が込められた言葉でもないのに。優しい言葉だったのに。どうして幼馴染というだけの自分がこんな出過ぎた感情を抱いてしまうのだろう。 自己嫌悪一歩手前の憂鬱は天馬には一切伝わっていないようだった。天馬は私が見知らぬ人と親しくしても平気なのかしら。きっと平気でしょうねと自問は一秒と掛からず自答される。サッカーボールさえあれば、いくらでも時間を使える人だから。 「葵!お待たせ!」 「…遅いよ天馬ー、」 「先生が職員室にいなくってさ、聞いたら丁度帰ったって言われて走って教員玄関行って先生捕まえて、謝り倒して机の上置いとくんでってまた職員室に戻ってたら時間食っちゃってさ…」 「折角部活終わって汗拭いたのにまた汗かいてちゃ意味ないじゃない」 「…うん」 「さ、帰ろ?私もうお腹空いちゃったよ」 「俺もー」 並んで昇降口を出て正門をくぐっても、どうやらもう他に生徒は残っていないらしく薄暗い静寂が広がっている。ひとりならば、気味悪くも思うだろう。だが隣を歩く天馬との会話があるから、葵はいつもより少しだけ遅い帰宅の路に惑うことはなかった。 いつもと同じ道を歩きながら、囲う周囲の闇だけが濃い。季節が巡ればこんな暗闇の中を帰らなくてはならないのだろう。ひとりでなければ、なんてことない些細なこと。そんな些細なことに対面するとき、同じように天馬は自分の隣を並び歩いてくれるだろうか。不意にそんな疑問が頭を掠め、それと同時に今まで気に留めていなかった闇が急に葵の心に纏わりつこうとして来る。未来のことなどわからない。だけどきっと楽しい。そんな無垢な希望ばかりでは成り立たない。 「コンビニ寄ってく?」 「お金なーい」 「メロンパン半分こするなら俺が買うよ」 「天馬は帰ったら秋さんの手料理たらふく食べれるのに間食するとは何事だー!」 「えー?お腹空いたって言い出したの葵じゃん!」 「だから早く帰ろうって意味だったの!」 人数は変わらないのに賑やかさを増した会話に葵は救われる。本当は、来週発売の雑誌を立ち読みで済ませてしまえば買い食いくらいなんてことない額を彼女の財布は残しているのだ。ただ毎月買い食いが過ぎてかつかつの生活を強いられているのは天馬の方だ。いつかこの買い食い回避を感謝すると良い。 未練がましくコンビニと呟き続ける天馬の足が止まってしまわぬようにと彼の手を取って歩く。まるでおもちゃ屋やお菓子売り場の前でごねる子どもの手を引く母親のように。親と子。姉と弟。周囲の言葉の所為もある。だが自らも自然と己を上に据えて面倒を見てあげているなどと優位性を保とうとするのは、定位置となった場所から動きたがらない幼稚さだろうか。 葵は、自分が天馬と幼馴染であることに特別な理由などないと知っている。縁とは些細な繋がりや巡り合わせによって意図せず続いていくものだ。だが続いて来た縁の結果として幼馴染という形が完成したのなら、少しくらい執着したって良いだろう。恋らしい恋もしていない上に、部活で忙しく四六時中一緒に行動する女友達も持たない葵の最も繋がりのある存在といえば、家族以外ではやはり天馬しかいないのだから。 「…天馬、ちょっと手が大きくなったね」 「そうかな?あ、でも身長はちょっと伸びたんだよ」 「うん、なんかそんな気がする」 「――葵は変わんないね」 「まだ成長期じゃないだけだよ」 「ううん、成長期が来たって葵は変わんないよ」 「…そんな訳ないじゃん、私だってもっと背も伸びるし、他にも色々大人っぽくなるに決まってるでしょ!」 「でも葵は女の子だから。俺の方がいっぱい身長伸びるよ」 「―――、」 手を繋いだままへらりと微笑んだ天馬の言葉の数々に、夜の空気を吸い込んだ葵の喉はひゅ、と詰まる。繋いだ手は自分から握ったというのにまるで天馬の手に包まれているようで、そのことを実感した途端葵の中の何かにひびが入る。きっと自尊心だとかそんなもの。 まるで自分だけが成長して行くのだと言いたげに。置いていってしまうよと囁くように。暗い景色の中でははっきりと確認出来なくとも今の天馬は優しい瞳をして葵を見つめているだろう。それくらいの察しは容易くつけられる。だって幼馴染だから。 ――やめて、大人になんかならないで。ひとりでなんかいかないで。 脳内では叫ぶように再生されている言葉も何一つ直接音を鳴らすことはない。天馬の前ではお姉さんでいようと心掛けてきた外皮は、葵が自分で思っている以上に分厚い。 「…天馬」 「んー?」 「大好き」 「えー、どうしたの急に」 俺も大好きだけどさ。そう葵の腕ごと振り回しながら笑う彼に、いつの間にか手を引かれて歩いていることに、彼女は漸く気がついた。だがそのことに張り合って彼を抜かし歩く気力は生憎残っていなかった。 ――天馬の所為だ。 天馬がプリント提出を忘れたりするから、帰りが遅くなって、自分はこんな悲しい気持ちになってしまったのだ。そう結論付けて、沈みきった思考を強引に切り上げた。 天馬が悪い。だからまだ自分は幼馴染として彼の隣に陣取ったって構わない。だっていくら天馬の身長が伸びて大人に近付いたとして、自分達の関係が揺らぐなんてことは有り得ないのだから。 訪れ始めた変化には直視を先送りにして、狡いと知りながらも葵は今伝わってくる手の温度だけは永遠だと信じ込むように繋いだ手に少し力を込めた。やっぱり天馬とメロンパン半分こしたかったなんて、口が裂けても言えやしない。 ――――――――――― 生ぬるい愛でふやかしておいてね Title by『告別』 |