手元と周囲に散らばった絵本はどれもこれもがお気に入り。ぬいぐるみの尻に敷かれてしまったものもあったっけ。お姫さまは絶対幸せになるの。だから、両親が貴女は私たちの大事なお姫さまよと愛でてくれた自分だって当然幸せになるのだと信じていた。
 思えばあの頃は必要なもの全てが手に届く範囲にあった。足りないものは声を張り上げればどうしたのと優しい母親がやってきて与えてくれる。駆け出す勢いはあったけれど、如何せん部屋の扉を開ける身長だけが足りなかった。守られていたのだと気付くには、窮屈さが先立って外にばかり目を遣ったから、どこからか注がれていた愛情の眼差しにだって気付けなかった。だけどちゃんと愛していたよと伝えるには、もう遠い。
 ――また、遠い。
 見上げた駅構内の時計は春奈が到着を告げられていた時間を幾分過ぎてしまっている。なにせ長旅だ。分刻みの行動に正確さを求めては安まるまいとは思うのだけれど。そこは大人なのだから、事前連絡のひとつくらい寄越すべきだと思うのは、春奈が立派な社会人になったからなのか。相手がずぼら過ぎるのか。
 待ち合わせの相手である吹雪士郎と、こうして時間と場所を決めて落ち合うこと事態が稀だった。北海道は遠い。教員として働いて、部活の顧問まで受け持っている春奈には、自由な時間はあれど遠出に割ける時間は殆どない。吹雪も、暇ではないらしい。具体的にどんな仕事をしているのか聞いたことはない。一度だけ母校の後輩の面倒を見ることになったと事後報告を貰ったことがある以外は。まあ、自分より先に社会に出て、それまでもなんとか逞しく生きていた人だから、不安はない。心配は時々するけれど。

 付き合ってるんだよね?

 そんな疑問はいつだって春奈の外からやって来る。ええそうよ、と満面の笑みを浮かべて返そうにもじゃあ何でと続けられたら面倒だから春奈は何も言えない。
 吹雪から北海道に来ないかと誘われたことも、彼が北海道を出ようとしたこともない。春奈が北海道を出てと要求したことも、自分が北海道に行きたいと要求したこともない。お互いにとって一番縁深い場所を知っている。引き離したいとはなかなか思えない。だって飛び出すにはそれなりに勇気と覚悟がいるのだから。
 春奈が飛び出した世界は当初やたらと酷に映ったことを、今だから淡くぼかして思い出せる。有り余る世界はぼろぼろと崩れ落ちて、しっかりと自分の力で構築し直すのに随分と時間が掛かってしまった。長い人生の中ではまだ若いのに、まるで全て完成したかのように言えるのは、単に良い出会いをしたからだろう。吹雪士郎という恋人に限らずに。
 もし明日死んでしまうとしたら、誰に会っておくかなんて考え始めたら、春奈は時間が足りないと即座に答えるだろう。みんなに会いたい。一瞬でも大切だと思えた全ての人に。そうして最後には、一番愛した吹雪に会いたいと思う。こんな考え方は、春奈と同じ置いてけぼりから生き続けた吹雪には歓迎されないのだろう。例え話だから、真剣に捉えてくれなくても構わないのに。
 一分一秒を争って死んでいく訳じゃない。生きることに過程という意味がある。だけど、こんな考え方をするから、恋人という形は取れても隣に引っ付くことが出来ないのだろうか。長い長い道のりの終点を思えば誰もが誰かを置いて果てるのに。何故悠長に構えてられないのかなんて聞くだけ野暮だ。
 置いていかれるくらいなら置いていきたい。我儘だとしてもそうしたい。だから、置いていかないでくれるなら多少の待ちぼうけくらいは耐えられるのだ。

「音無さん!」
「…吹雪さん」
「ごめん、予定の電車に乗れなくって、」
「メールくらい入れてくださいよ。時間の潰しようもないですから」
「ごめん」

 上下線が重なるように到着した駅の改札は一気に人で溢れかえる。そんな人混みから器用に抜け出してきた吹雪は簡単に春奈を見つけ出して久しぶりだねと笑うから、彼女も小言は手短に済ませて微笑んで彼を出迎える。
 遠出にしては小さめな鞄を後ろ手で肩にかけて、残った手で春奈の手を取って歩き出す吹雪のスマートさに、相変わらず変な勘ぐりをさせるくらい素敵な人で困りますと言いたくなってしまう。駅を出ても、春奈に何も問わずにさっさと歩き続ける吹雪に、流石に焦って声をかけた。

「吹雪さん、道わかるんですか?」
「うん、稲妻町には何回か来てるし」
「でも片手で足りるくらいでしょう?それに毎度同じ道ばかり通った訳でもないのにずっと覚えてるんですか?」
「うん、結構覚えてる」
「吹雪さん、そういうの得意でしたっけ…」
「ん?そういうのって?」
「初めて来た場所でもあんまり迷わなかったり、地図見るのが上手だったり、一度来た場所は忘れなかったりとか」
「んー、それ程じゃあないかな」
「えー?」

 じゃあどうしてですかと問い続ける間にも、吹雪は春奈の手を引いて歩いていく。駅前大通りの歩道は家路に着く学生や社会人で溢れていて見通しが悪いのに、すいすいと間を縫うように、だけど急いではいない、そんなペースで手を繋ぎながら。
 こんな人前で吹雪と手を繋いで歩くなんて滅多にないことだ。視界の端々に見慣れた制服がちらほら映ったとして何の羞恥も焦燥も浮かばないくらい嬉しかった。それでもやはり、正確に春奈の自宅への道を歩く吹雪への疑問は解決されないまま。

「以前一度今日みたいに駅から音無さんちに行ったじゃない?」
「ああ、確か私が大学生でしたからもう何年か前ですよね」
「あのとき必死にこの道だけは覚えたんだ」
「どうしてですか?」
「また来るかもって思ったし。こうやって手を繋いで一緒に帰宅とか憧れてたし」
「それなら別に道を覚えなくても私がいれば問題ないじゃないですか。頼ってくれれば私も嬉しいのに」
「手を繋いで道案内されるなんて迷子みたいで嫌だよ」
「はあ、そうですか…」
「それに、女の子をちゃんとエスコート出来る男でいたいんだよ」

 お姫さまの手を取って導く王子さまみたいにさ。絵本の中のお姫さまと比べたら、吹雪のお姫さまは我の強い面があるけれど。それでも吹雪には逞しくもあり脆くもある大切な存在だから。
 ――かっこつけさせてよ。
 呟かれた言葉に、春奈は何も言わずに繋がれた手に力を込めた。いつもは遠い彼がこんなに近くでこう言っているのだから、甘えさせてあげたいし、甘えたって良いのだろう。格好なんてつけるまでもなく格好良いんですよ貴方は。
 手の届く範囲にある幸せを感じながら、春奈はもう今日の夕飯をどうするかを考え始めていた。



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いつだって目の前の男を愛せるの
Title by『Largo』



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