ふと、クララの横を通り抜けた際に鼻をかすめた香りに風介は足を止めた。彼女はソファに腰掛けて、丁度読みかけの本の続きを読もうと頁から栞を外している所だった。
 クララは香水の類は着けなかった筈だがと、じっと彼女を斜め後ろから観察する風介の気配を早々に捕まえて、クララは若干気怠げに振り向いた。表情にありありと浮かぶのは、不愉快の色だった。

「何か御用なのかしら?」
「いや…。ただ香りが気になっただけだ」
「香り?」
「何だろう…花のような香りがするんだ」
「ああ、これね」
「…栞?」
「ラベンダーの香りがするのよ」

 抜き取ったばかりの栞を、クララは風介に手渡して、用件は済んだろうとさっさと読書に戻ってしまった。手渡された栞を手に、風介はどうすることも出来ない。匂いの所在が気になっただけで、それさえ証明して貰えれば良かったのに、実物を手渡されるとは思わなかった。
 翳してみたり、ぱたぱたと振って意図的に香らせてみたりを暫く繰り返して、これはただの栞でしかなく、読書をしない自分の手元にあっても仕方のないものだという結論に落ち着いた。
 尤も、クララはさっさと風介との会話を打ち切りたいが為に話題の元であるラベンダーの香りがする栞を彼に放っただけで、決して譲渡した訳ではないのだが、あげるとも言われなかったが返せとも言われなかったのだからと自分に都合の良い解釈をするのが涼野風介という少年であった。
 そして、そんな彼の思考傾向を熟知した上で何とでもなるとぞんざいな対応を是とするのが倉掛クララという少女である。大して思い入れもない栞を風介が懐にしまって持ち去ろうがその辺のゴミ箱に投げ込もうが構わない。大体、今読んでいる本には元から栞のりぼんが付いている。
 風介の行動に注意を払うこともなく読書に没頭するクララの後ろで、彼は手にしていた栞を自分の上着のポケットにしまってその場を後にする。本に集中してしまったクララにはどんな応対も期待するだけ無駄だろうから、声は掛けない。黙ってソファの上に置いておくという選択肢もあったのだが、風介は既に栞を自分のものだと思い込んでいて、尚且つそのラベンダーの香りが気に入ったので、手元に置いておきたいという欲求が勝った。
 ポケットにしまった栞を布越しにぽんと叩けばまた微かにラベンダーが香る。そのことに満足して、風介は新しいスパイクを買いに行くと約束していた晴矢との待ち合わせ場所にのろのろと向かった。待ち合わせといえども同じお日さま園に住む者同士、玄関での集合である。
 クララとの会話に時間を取られた分、やはり風介の方が遅れて到着し、せっかちにもう靴まで履いている晴矢に早くしろと急かされる。謝りながらも急くことなどしないまま、風介は今日の予定にもう一カ所行きたい場所があると付け足す。具体的な場所名を告げれば途端に嫌そうな顔をした晴矢に無視を決め込んで、風介は玄関の戸を開けた。



 クララが本を読み終えて顔を上げると、部屋はいつの間にか薄暗くなっていて、思った以上に時間が経っていたことに溜息を吐いた。読書に夢中になりすぎるといつもこうだ。他人の声も碌に聞こえず、まさに自分だけの時間に閉じこもってしまう。
 酷使した目を休める為に目を閉じる。それに合わせて耳を澄ませば玄関の戸を開ける音がして、次いで一人分の足音が自分のいる部屋に向かってくるのを察して、クララは直ぐに目を開けた。このお日さま園に住む全ての人間の足音を聞き分けるなんて芸当はとても出来ないが、なんとなく、此処に向かっているのが誰なのか予想はつく。

「おかえりなさい、風介君」
「……ただいま」
「随分ゆっくり出掛けていたみたいね」
「うん、疲れた」

 部屋の戸を開けるのとほぼ同時に放られたおかえりに、風介は一瞬面食らったように停止したものだから、それが少しおかしくてクララは微笑んだ。
 どちらかといえば風介は出不精だ。サッカー以外で活動的な彼の姿などクララは見たことはない。全く遠出をしないということもないけれど、クララが読書を始めて読み終わる頃になってもまだ帰っていなかったことなど本当に久しぶりだった。
 クララの言葉を肯定して疲労を隠さない風介の手には何も握られていない。恐らく上着かズボンのポケットには財布が入っているのだが、長らく外を出歩いていた割に収穫物は一切なかったらしい。

「…何も買わなかったの?」
「欲しいものがなかったんだ」
「ふうん、何を買いに行ったの?」
「ラベンダーの香りの雑貨とか、取り敢えずその香りのするものが何か欲しかったんだ」
「ラベンダー?」
「ほら、これと同じ匂い」

 訝しげな顔をするクララに、風介は出かける前に彼女から手渡された栞を取り出して見せた。彼のポケットに無造作に突っ込まれていた栞はクララが使用していた数時間前より確実によれていた。気の所為か、香りまで薄れてしまっているような気もする。
 風介がその栞をぞんざいに扱ったということは彼の所有物として扱われたのだろうと、クララは彼の横暴な質については今更だからと言及しない。ただ彼がラベンダーの香りを好むとは長い付き合いの中で一度もそんな素振りを感じたことはなかったので、それが不思議だった。

「ラベンダーの香りの雑貨なんてその手の店に行けば沢山あるでしょう?」
「ああ、あるにはあったけど気に入る香りのがなかったんだ」
「ラベンダーはラベンダーでしょう。そんな拘りを持つほどラベンダーが好きだったの?」
「いや?この栞を貰うまでラベンダーの香りなんて気にしたこともない」
「はあ?」

 滅茶苦茶ではないか。意味が分からないと、クララが胡乱げに目を眇めて風介を睨めば、彼もなんと説明したらよいものかと首を傾げる。可愛くない。
 手にしたままの栞の香りを確かめるように鼻先にあてがって深呼吸。気持ちが落ち着いて思考も纏まったのか、風介は自分にも説明するように話し始める。

「ラベンダーの匂いが気に入ったつもりで買い物に行ったけど、ラベンダーだらけの場所に行ってもあまり良い匂いだとは思えなかった」
「どうして?」
「この栞だから、気に入ったんだろう」
「……?」
「君がくれたものだから」
「…!」

 それだけのことだったと、不意に微笑んだ風介に、あげていないなんて無粋な発言は出来なかった。彼の、栞を見つめながらの微笑みに浮かぶ愛しげな色は、どう捉えてもクララ自身に向けられているのだから。
 何と言って良いのか解らない。風介の言葉が嬉しかったなんてとてもじゃないが言えやしない。一方彼は説明義務は果たしたと言うのか、それ以上の言葉を続けることはなかった。
 訪れた沈黙の場に、彼の持つ栞のラベンダーが香る。風介によって、一瞬でも好ましく思われた、それ。だけど、風介に心底想われているのは自分なのよ、と。せめてもの照れ隠しに、クララはほんの前まで自分のものであった栞に対して、そんなことを思った。



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ラベンダーの香りに惹かれた
Title by 四季様/15万打企画




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