「金魚とか飼ってたか?」 ある日の夜。仕事終わりの冬花と待ち合わせて彼女の部屋に遊びに来た風丸は、寝室にあるベッドの枕元に置かれている金魚鉢を見付けて、尋ねた。中には水も張られていなかったけれど、底には沢山のビー玉が敷き詰められていた。窓から差し込む光を受けてきらきらと輝いているそれは、枕元に置くには些か眩し過ぎやしないかとも思った。 「いやだ風丸君、女の子の寝室を覗くなんて」 「コート掛けとけって言ったのは久遠だろ。ハンガー取りたかっただけだよ」 「風丸君はどんどん家のこと詳しくなるね」 「誰かさんがやたらと俺をこき使うからな」 「そんな人がいるのね可哀想…。私だったらちゃんと優しく面倒見てあげるのに…」 「どの口がほざくんだ?」 わざとらしくおどけてみせる冬花に、風丸も苦笑しながら応じてやる。 看護士である冬花の仕事帰りに彼女の自宅を訪ねれば、疲れきっていることが多く、そんな彼女の姿を見て世話を焼かないという選択肢が風丸には端から存在しなかった。不規則な休みに合わせて丸一にを冬花の疲労を無視して外でのデートやらに費やすよりも、ほんの数時間、定期的に顔を合わせて彼女のありのままの様子を確認できる付き合いの方が安心できるなんて知られたら、重いのだろうか。余計なお世話なのだろうか。尋ねたことはない。冬花が目の前の人間との繋がりに固執せずに、流されるまま生きることを好むのは今に始まった話ではなくて。そして自分との繋がりも時間の流れの中で解けていってしまうものの一つだと思われていたら切ない。だから、風丸は冬花に沢山のものを与えようと躍起になる。愛情やら甘やかしを放り投げて身動きすら取れないほど沈んでくれれば良いのに。 やはり重たい。子どもの頃よりも発想が物騒なのは、昔よりも自由が利かない時間の中でより多くを求めるようになったからだろうか。冬花のコートをハンガーに掛けて、さて夕飯はどうするかとわざとらしい思考の転換を要する。冬花は風丸の考えなど察するも及ばないのか、それよりも先程彼が興味を示した金魚鉢を寝室から持ち出してきてはリビングの床に置かれた巨大なビーズクッションに身を沈めた。 「昔金魚を一匹飼っていたの」 「へえ、いつ?」 「いつ?さあ、いつだったかしら。お父さんが夏祭りで掬ってくれた一匹だったことしか覚えてないなあ」 「ふうん、」 「お祭りの次の日にホームセンターに行ってこの鉢とビー玉を買ったの」 この間実家の押し入れを掃除していたら出てきたからもって来ちゃったの、ととても楽しそうに思い出を語り始める冬花の声を聴きながら、風丸は台所に向かい勝手にマグカップを拝借し戸棚を漁り、白いケトルを火にかける。一人暮らし用の手狭な部屋は、こうして作業をしながらも隣の部屋にいる人間の声がしっかりと聞こえるから良いと風丸は思う。以前そう口にしたら、冬花はじゃあ貴方が住めば良いじゃないと臍を曲げてしまった。曰わく、自分の月収と家賃と職場への交通の便を照らし合わせた結果ここに落ち着いているだけで、余裕さえあればもっと広い部屋の方が良いらしい。風丸の住んでいる部屋は冬花のよりも幾分広くて、私が風丸君の部屋で暮らすには今以上に働かなくてはならないのだと珍しくぼやいていたのを思い出す。かといってでは一緒に暮らすかと風丸が提案しても、職場に遠くなるとあっさり首を振るのだから彼女の考えはよくわからない。 「金魚って直ぐに死んでしまうのね」 「…さあ、俺は飼ったことないからわからないけど」 「それなりに設備を整えれば良かったのかもだけれど、金魚一匹に大きな水槽やら水草やらエアポンプやらなんて投資出来ないわ」 確かに、金魚に対してあまり長命なイメージはないけれど。 ケトルがやかましい音をたてる前に火を止めて、インスタントの珈琲を二人分。白と黒のマグを両手に持って、特に意味はなかったけれど白い方を冬花に差し出せば彼女は手にした金魚鉢をテーブルに置いて風丸から珈琲を受け取った。 「綺麗でしょう」 「…?何が?」 「ビー玉。水を張って、日の光が差すともっと綺麗なのよ」 「へえ、」 「だからね、そんな綺麗な水の上に金魚の死骸が浮いてた時はすっごくショックだったの」 「………」「私にしては珍しくわんわん泣いたの。可愛がってたつもりの金魚が死んだのが悲しかったのか、お父さんに買って貰った金魚を死なせてしまったことが申し訳なかったのか。でも一番はきっと綺麗だと思ってた小さな世界が汚されたことが悲しかったんだと思うの」 今更だけれど、と会話を結んだ冬花は猫舌なのか恐る恐るといった具合で珈琲に口を付ける。 風丸も、会話が途切れたのを切欠に自分の思考に意識を傾ける。子どもながら、冬花が声を上げてまで泣くなんてあまり想像がつかない。想像がつくのは、金魚鉢の水面にぷかりと浮かんで動かない一匹の金魚。あまりいいイメージではない。 水を張ると綺麗だと言われた金魚鉢には生憎ビー玉しか詰められていなくて、鑑賞しようにも味気ない。 「久遠、金魚鉢に水入れないのか」 「何故?」 「綺麗なんだろう?」 「綺麗なだけよ?」 「うん?」 「綺麗なだけで、珍しくもないし、感動もしないの」 「久遠、」 「それだけのことよ、なんて言葉、あの頃は知らなかったの」 そこに価値はないのと微笑む冬花が語るあの頃とは、きっとこの鉢の中を一匹の金魚が悠々と泳いでいた頃なのだろう。幼い日、小さな器の水底が湛える光に魅せられた少女は、時間の経過と共にその感動を風化させてしまった。そこに風丸は存在しない。それが堪らなく寂しいとは、大人になるにつれて幅を利かせ始めた男としての見栄が邪魔をする。 同じ部屋にいて、隣に座って、一緒に珈琲を飲んでいても全く共有出来ない思い出を話題に持ち出す冬花は意地悪だ。責めたとて、彼女は意にも介さないだろう。自分の部屋で何を考えようがそれは彼女の勝手なのだから。 「…綺麗なだけでも良いんじゃないか」 「どうして、」 「褒め言葉のつもりなんだろ。悪くはないじゃないか」 「まあ、そうだね」 「久遠だって、十分綺麗だ」 「…風丸君?」 「それだけなんて言ったら失礼だけど、それだけは確かなんだ」 「褒めてるの?」 「勿論」 「でも気障だよ」 風丸の言い草が気に入らなかったのか、単なる照れ隠しなのか。冬花は座っていた巨大なビーズクッションに埋まるように寝転がってしまう。拗ねてしまったのか、顔を風丸から背けるようにして。 苦笑しながら謝る風丸に、冬花は疲れてるのと小さく返した。眠いんだなと察した風丸は、手にしていたマグを置いて立ち上がり、冬花の眠気を邪魔しないように注意しながら彼女を抱き上げて寝室のベッドに運んだ。礼も述べずに深い眠りに落ちかけている冬花の頭を撫でてから部屋を出る。 使用したマグカップを洗ってリビングに戻ればテーブルにぽつんと放置された金魚鉢が目に着く。数秒悩んで、折角だからと勝手に水を張ってみる。生憎、時間帯が夜の所為で日光が差し込む光景を目にすることは出来ないが今のままでも十分に綺麗だと思った。 満足するまで金魚鉢とビー玉を眺めた後、風丸はそれを最初見つけた場所に戻しておいた。明日の朝、冬花が目覚める時にはきっと朝日が差し込んで、柔らかな光の屈折が彼女の頬に触れるだろう。 そしてその光を、冬花はただ綺麗だと感じてくれたらそれで良い。子どものような無邪気な感動を、大人になったが故に失ってしまったのだと嘆く冬花こそが幼い純粋さを持ったままなのだとは、風丸には上手く言葉で説いてはやれないから。 「おやすみ」 名残惜しいけれど、自分の恋人はあまり寝顔を見られることを好まない。最後に、もうすっかり眠ってしまった冬花の額に優しくキスをして、風丸は彼女の部屋をそっと後にした。 ――――――――――― 子供の時に見た夢はビー玉の世界だった Title by 匿名様/15万打企画 |