「キスをしよう」

 そう囁けば、秋が頬を真っ赤にして微笑みかけてくる。拒まれることなど、時と場所さえ選べばある筈もなかった。だって自分は、秋に飽きることなく愛の言葉を囁いたり、言葉では足りない想いを伝える為に誰に遠慮することもなく口付ける権利を得たのだから。一之瀬が誰に勝ち誇るでもなく己の内に言い聞かせながら喜びに浸る度に、耳元で「もう、一之瀬君ったら」と苦笑を湛えた秋の声が聞こえる気がする。多くもない荷物を黒のトランクに綺麗に詰め込みながら一之瀬は自分しかいない部屋をぐるりと見回す。普段身を置いて暮らしている部屋ですら、これから訊ねて行く場所を思えば随分褪せて見えるものだと、一之瀬は自分の盲目さに笑った。苦々しくなど、微塵も感じさせない笑みを浮かべて。


 一之瀬から日本に遊びに行くと連絡を貰ったのはもう三週間ほど前のことになる。自室のカレンダーに彼がやって来る日の数字を赤ペンで丸く囲めば何だかとても大事な用事があるみたいで秋は嬉しくなる。
 遊びに行くということは、秋に会いに行くとほぼ同義であった。サッカーならばサッカーで行くと言うし、それ以外の用事でアメリカでプロとして活躍している一之瀬が日本に訪れることは殆どない。だから秋は一之瀬が日本に来るまでの日々を嬉々として、まるで少女の頃に戻ったかのように舞い上がって過すのだ。
 以前、一之瀬がサプライズと称して事前の連絡も寄越さず秋の元を訪ねて来たとき、予定は空いていたけれど、やはり女の子としては何かと準備が必要なのだからと滾々と彼に説明して言い聞かせた。嬉しかったこととだけど次からは違う方法を選んでほしいことを両立させながら話をするのは案外骨が折れるのだと秋はこのとき改めて実感した。ありのままの秋で良いんだよなんて恥ずかしい台詞を言い出す一之瀬に、女の子は好きな人の前ではいつだって可愛らしく振る舞っていたいのよなんて羞恥に耐えて言い返したことも今は懐かしい。結局は秋にばかり優しい一之瀬だから、それ以降日本に来る時は必ず余裕を持って連絡を入れてくれるようになった。
 思った以上に三週間という時間はあっという間に過ぎて、秋は一之瀬を迎えに空港までやって来ていた。昔久しぶりに彼を迎えに来た時は擦れ違いになってしまって、大変だったことを思い出す。そして、こうして大人になっても自分が彼を出迎える位置にいることを意外にも思い、そうなって良かったとも思う。
 一之瀬と秋が恋人同士になる前。世界大会の時、彼は秋にアメリカに来て欲しかったのだと、一之瀬の口からではなく彼のチームメイトでもうひとりの幼馴染である土門から聞かされた。そしてあの時実際アメリカに来てくれと告げられても、自分は決して首を縦には振らなかっただろうと冷静に判じた。現に秋は、一之瀬と結ばれた今でも日本から腰を上げてはいないのだ。秋がアメリカに出掛けて行ったのは、一之瀬がプロリーグのデビュー戦に出場した時くらいのものだった。リーグ戦の途中で会いに行っても、時期によっては全く自宅に帰れないこともあるそうだから、秋は日本で大人しく待っていた。時折、パソコンで遠い異国で奮闘している彼の情報を探したりもしながら。

「秋!」
「一之瀬君、」

 人混みで雑然とした中から、自分の名前を呼ぶはっきりとした声に秋もすぐ一之瀬を見つけることができた。一之瀬は器用に自分の進行方向を邪魔するように通行する人々を除けながら秋の前に立った。背が伸びただとか、髪が短くなっただとか外見上の変化を見つけて感動するようなことはもうしない。ただ元気そうな姿が確認できて、その事実に笑顔を浮かべる秋を今度は一之瀬が笑顔を以てして二人の再会はそれで充分だった。
 自然に手を繋いで歩きだす一之瀬は軽く自身の近況を纏めて秋へと伝える。軽く相槌を打ちながら、前と変わらずサッカー漬けの日々を送っているようだと秋は安堵する。

 荷物もあるからと、寄り道もせずに秋の家へと戻る。戸をくぐった時に、「おじゃまします」ではなく「ただいま」と言う辺りが一之瀬らしくて、秋は訂正も反応もしないまま素直に「おかえり」と言っておいた。

「秋の家は落ち着くなー」
「そう?ゆっくりしててね」
「うん、…いや、ねえ秋」
「なあに?」
「キスしても良い?」
「……良いよ、」

 突然の申し出にも、秋は少し頬を染めただけであっさりと頷いた。それは勿論、相手が一之瀬だったから。秋が了承したのを受けて、冗談だよなんて済ます筈もなく一之瀬は嬉しそうに秋との間合いを詰めてそのまま愛しい彼女を抱き締めた。久しぶりの抱擁に感極まったのか、泣き出したりはしないものの「幸せだな」と呟かれた言葉に、秋も小さく頷いて同意を示した。
 抱き合っていた身体を少しだけ離して、秋が瞳を閉じると直ぐに一之瀬の唇が触れて、二人だけの部屋に小さくリップ音が鳴って、そんな短いキスを何度か交わして、また見つめ合う。こんな恋人同士だからこその触れ合い方が出来るほど傍にいる時間は、日々離れて暮らす時間に比べて格段に短いというのに。こんな僅かな熱でどんな不安も二人を覆いはしないのだと思える。愛しいなんて言葉を大袈裟なんて憚りもなく目の前の相手に抱くくらいに優しい愛を一之瀬から貰った。だから秋も、惜しむことなく彼に贈るのだ。たった一人にだけ向けることの出来る、恋の先に在る愛を。
 大人になったものよね、と秋は胸に残る思い出の中の少女にそっと言葉を掛ける。未来のことなど気にも留めず、今だった時間を精一杯に駆け抜けた、いつかの自分に。
――そのまま迷わず走ってね。
 きっとあの頃の自分が想像した未来とは、幾分違えた場所に立っていたとして、それが不幸せだなんてことは絶対にないのだから。


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リップノイズに愛をのせて今日も君を抱きしめる
Title by 零崎愛識様/15万打企画





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