※「Etoile」設定


 風に乗って、微かな音がルシェの鼓膜を震わせる。ああ、鳥が鳴いていると思うのと同時に自分が慕う彼の声も混じっていたように感じて、ルシェは歩んでいた脚を自然と止めてしまっていた。ルシェの手を引いて先導役を務めていた侍女はどうしたのかと彼女を振り返る。風が吹き込んできた方向に身体を向けて覚束ない足取りでルシェは手を前に伸ばしながら歩く。触れた石造りの壁をぺたぺたと触りながら、何処かにこの風と声を運んできた窓ないし隙間がありやしないかと探っていると、傍にいた侍女がルシェの手を取って窓縁に持って行った。どうやら窓は開いているらしく、気を付けてくださいねとの注意にひとつ頷く。
 ルシェは目が見えない。先天的な盲目という訳ではなく、幼い頃罹った病気の悪産物だと周囲の人間はルシェに教えてくれた。だからだろう、ルシェは光というものを記憶として覚えているし、椅子や本や寝台と言われればぼんやりとその形を想像ではなくイメージすることができる。目が見えないということに利便性を見出したことはない。五感の一つを損なえばその穴を埋める為に他の感覚が鋭敏になるという。その通り、ルシェは聴覚や嗅覚、また触覚に至るまで常人よりもはるかに優れた感覚を有していると言えるだろう。だがそれを活かすような場所もなく、機会もなく。ルシェはただ長らく病床に着いたままのお姫様として扱われてきた。当然、外に出掛ける意こともそう簡単なことではなかった。お姫様というものは、案外どこの国でもそうなのかもしれない。だが隣国の姫が交換留学と称して頻繁にこの国に訪れているのを知るルシェとしては、世界は一体どれほどの広さを持って佇んでいるのか実に興味深い問題でもあった。

「フィディオお兄ちゃん?いるの?」
「―――?」
「いない?」
「…あ、やあルシェ、遊びに来たよ」

 最初の呼びかけは、どうやら発信源が何処からかわからなかったらしい。二度目のルシェの問いかけに、フィディオは目当ての姫君を見つけて微笑みかけた。まさか、上から声を掛けられるとは思っていなかった。
 フィディオは登城して、城内への入口へと向かっている最中でまだ外を歩いていた。途中顔馴染みの門番と会話に興じてしまい、その声が偶々ルシェの耳に拾われたのだ。彼女がいる位置を確認して、フィディオはその地点まで行く最短ルートを探る為にまずは城内に入る場所を探す。直ぐ行くからそこで待っていてくれと言えば、ルシェは快く大きく頷いた。ルシェ個人への私用で潜り込んでいるので、当然馬鹿でかい正面玄関から乗り込んだりはしない。フィディオは自身の幼さにかこつけてよく使用人用出入り口や厨房の勝手口、最悪木を上って手近の窓から侵入なんて奔放をやらかしている。それはフィディオの貴族であっても未だ子どもだから許されるという強みであり、それ以上はないというもどかしさの結果だった。
 すぐ傍に在った窓縁を飛び越えて、城内へと入るとまた一番近くに在った階段を駆け上る。途中擦れ違ったメイド等には相変わらずねだとか、もっと静にした方が良いなどと声を掛けられて、全てをひっくるめてフィディオはありがとうと礼を述べて結局そのままルシェの元まで走り続けた。

「フィディオお兄ちゃん?」
「うん、そうだよ。あれ、さっき侍女も一緒じゃなかった?」
「いたよ。けどフィディオお兄ちゃんが来るなら大丈夫ねって先にお部屋に戻っちゃった」
「そっか」

 それは職務放棄と等しいのではないだろうかと思う反面、自分に寄せられた信頼が嬉しくて、悔しくもある。確かに、自分がルシェに危害を加えるなんて絶対にあり得ない。そんな輩をルシェに近づけさせたりもしない。彼女の騎士様みたいと思われているなら、その点は誇らしい。子どもであるが故に許容された範囲でしか生きられないフィディオには、まるでいっぱしの大人同様に認められることは一種のステータスだ。
――でもそれは俺がずっとルシェの臣下でしかないってことだ。
 兄妹のようだと形容されたこともある。それはルシェのフィディオへの呼称に原因がある。ルシェの周囲にはフィディオの様な存在がいなかったから、今のところ「お兄ちゃん」と呼ばれているのは彼一人きり。その呼び名が、よりフィディオにルシェを守ってあげなければという使命感を与えたことは間違いない。その使命感は、きっと恋ではなかった。
 恋よりも淡く、だが義務でもないルシェとの逢瀬の為に足繁く通うフィディオの気持ちを、周囲の人間は誰一人無粋な想像でもって汚すことをしなかった。まさか、只の由緒があるとはいえ一貴族の少年が、王族の姫に恋をして、挙句それが叶うだなんて思う筈がない。そんな一般常識が如くフィディオの道の前にある大前提を、彼自身否定することなど出来なかった。貴族であることを嘆いたことはない。貴族にだって面白い人間は沢山いて、だからこそ知り合えた友人をフィディオは誇りに思うし好いている。だが自分が貴族であることと、ルシェを大切に思うことに対する折り合いは未だ付かずに、フィディオは彼女の前でその瞳に映ることのない笑みを浮かべては離れ離れになるかもしれない未来には目を伏せてきた。
 貴族であることよりも、ルシェが大事かと問われれば、フィディオは少しだけ悩んで、それから首を縦に振るだろう。だが貴族でなければルシェの前に立つことは出来ないのにと詰め寄られれば、フィディオは力なく項垂れるしかない。心意気と現実はいつだって矛盾に満ちて幼い心を抉る。

「ねえフィディオお兄ちゃん、私の目が見えるようになったらお兄ちゃんのお家に遊びに行っても良い?」
「ルシェ、手術受けるの?」
「わかんない。でもいつかは手術をしなくちゃってみんな言ってる。手術を我慢できるくらい身体が元気になったら目も見えるようになるんでしょう?」
「…そうだね、きっとそうだよ」
「そしたら、私の方からフィディオお兄ちゃんに近付いてびっくりさせることだって出来るようになるよね!」
「どうかな?俺だってルシェを見つけるのは得意だからね」
「むむう、」

 拗ねたように頬を膨らませるルシェの前に、フィディオは笑う。ルシェの語るいつかへの期待と、そうなる時に自分は彼女の傍にはいられないのではという不安はいつだって先送り。だってどうしようもないのだと、フィディオは声だけは弾ませたまま、先程までの笑顔を歪ませて心で詫びる。
 このままずっとは不可能で。ならばどこまでならば一緒にいられるのだろう。それはルシェにだって分からない。フィディオがルシェの元に通う我儘を看過させる為に、自分が負うべき義務を完璧にこなせばこなす程周囲はもう家督を継いでも問題ないのではと彼を檻に閉じ込めてしまえば良いのではと同義の発言をする。逃げ出すことは出来なくて、だが一時の癒しを求めるようにルシェの元へ向かえば彼女とて周囲の人間からフィディオの優秀さは聞き及んでいるらしい。凄いねと笑顔で褒める彼女は何も知らない。フィディオの痛みも、自分に向けられている恋の様な慈しみを。

「ルシェの目が見えるようになったら、―――しようか」

 果たせもしない約束を積み上げながら、フィディオは今日も自分の胸に剣を突き刺す。塞がらない傷口に悶えながら、目の前で無邪気に光り輝く未来を信じて疑わないルシェに、フィディオはそれ以外の戯れを知らなかった。

―――――――――――

身分の差
Title by カノン様/15万打企画




「#ファンタジー」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -