きっともう、どれだけ時間を掛けて心を寄せてもどうにもならないのだと、天馬はこの時漸く自覚した。たった十数回、それでももう見慣れたと思い込んでいた、例年と代わり映えしない春の景色の中。当たり前のように隣にいた幼馴染の葵とキスをした、そんな日のことだった。



 天馬が学校へ向かう道すがらに通る桜並木の途中、葵は毎朝のように立っていて、約束していた訳ではないのに天馬に遅いと文句を言った。約束はしていなかったけれど、恒例ではあったから、日直や寝坊で都合の悪い時は決まって断りのメールを入れ合っていたし、稀に天馬が先に着いてしまったときは自然と足を止めて葵の到着を待つようにしていた。天馬の前を通り抜ける、同じ制服を纏った生徒たちがちらちらと寄越してくる視線がむず痒くて、ああだから葵は毎日遅いと自分に怒るのだと理解した。
 男女というだけで、天馬と葵の幼馴染という関係は周囲に上手く伝わらないことも多かった。毎朝待ち合わせて歩く通学路に特別な名前なんて在るはずもなく、デートなんて名詞は天馬の脳裏には過ぎるはずもなく、葵は周囲からの下世話な期待の籠もった目線を黙殺する為に笑顔を作った。

「天馬、」
「何?」
「私達、きっと凄く他人よね」

 葵の言葉は、時々天馬にはとても難しく響いた。他人という一語に、程度を添える必要も、そこから生まれる差異も天馬には解らなかった。隣を歩いていた葵は、端から天馬に自分の言葉の意図が伝わるとは思っていないのか、それ以上は何も言わずただ真っ直ぐと前を見て歩き続けていた。


 桜並木が若葉に茂り、夏の日差しを受けて木漏れ日を落とす頃、やはり葵は毎朝のように天馬を待っていて、彼は少しばかり遅れてその場に現れて、そのまま二人は連れ立って学校へと向かっていた。
 衣替えが終わり、制服の袖が短くなり上昇するばかりの気温に対して面倒な袖捲りをしなくても済むことを喜ぶ天馬の隣で、葵は日焼け止めの消費量が増えることを嘆いていた。昔は母親に強制されなければそんなもの着けなかったじゃないと尋ねれば、それは私が女の子とも呼べない年齢だったからよと言われた。だから天馬は首を傾げる。葵は、生まれた時から女の子の筈だったから。

「天馬はあの頃の私を可愛いと思う?」
「えっ…、そりゃあ、小さかったし…可愛かったんじゃない?」
「じゃああの頃の私とキスしたいと思う?」
「はあ!?思うわけないだろ!?」
「なら、あの頃の私は女の子じゃなかったのよ」

 天馬は、きっと葵はまた難しいことを言っているのだと思った。子どもの頃に、誰かにキスしたいなどと確かに思わなかったけれど、それでも葵は確かに女の子だったのだからと天馬は主張する。葵はやはりまた天馬には伝わらないだろうと諦めている風に微笑みながら、それもそうねと頷いた。その時天馬の胸に去来したのは、自分の意見によって彼女の意見を変えさせたという自慢よりも、どこか寂しい虚しさだった。
 ただ、その全てが今になって思えばという結果論で、当時の天馬はいつもなら呆れたように自分を言いくるめる葵が黙り込んでしまったことに張り合いがないとしか感じなかった。また似たような問答をどうせ繰り返すのだとばかり思っていた気もする。
 天馬との会話など無かったかのように、再び日焼けを厭う言葉を吐き出す葵の半袖から伸びる腕が、木漏れ日の下で青白い印象を与えていた。



 青葉が紅葉に色付き、やがて冬の寒さを迎えその葉を散らせる頃、葵は学校指定のコートと灰色の手袋を身に着けながら天馬を待っていた。日に日に億劫になる起床や屋外の活動に、サッカー以外はキツいやと天馬が零した時、葵はピタリと彼の隣を歩いていた足を止めた。
 不思議に思って、数歩分開いてしまった距離をそのままに振り返って葵の顔をじっと見る。彼女は、天馬と目が合うと小さく微笑んで、寒いねと呟いた。だから早く行こうと急かす天馬の声にも従わず、困ったように何度も白い息を吐き出しながら、彼女はじっと天馬から目を逸らさなかった。

「天馬、明日から一緒に学校行くのやめよう」
「――え、」
「私と天馬はただの幼馴染で、特別じゃないんだから」
「特別じゃないと一緒に学校行けないの?」
「そうじゃないけど…」
「けど?」
「特別に思われたい人がいるなら、話は別じゃない」

 そう言う葵の瞳は、真っ直ぐ天馬の方を向いていたけれど。どこか天馬をすり抜けたずっと先を見つめているようで、天馬は戸惑う気持ちの儘溢れそうになる何故の言葉を必死に奥歯と一緒に噛み締めた。
 葵が恋をした。自分ではない、今此処にはいない誰かに。ゆっくりと、乏しい理解力が天馬にそう示した。その恋は、葵にとって特別に成り得るものらしい。毎朝、一緒に並んで歩くだけの幼馴染には辿り着けない場所。

「――わかった」

 かすれた声を絞り出すように頷いた瞬間僅かに見えた葵の顔が、自分よりもずっと寂しそうに見えたのは気の所為だと、天馬は彼女に背を向けて一人歩き出していた。
 それから、冬が終わるまで天馬は毎朝一人で並木道を通り学校へ通った。追い越されたり、追い抜く人は誰も天馬に視線など向けはしない。葵が隣にいなければ、誰も自分ひとりに下世話な色恋の空気を求めて吸い寄せられはしないのだと、天馬はまた初めて知った。
 それでも、話し相手もいないぽっかりと空いてしまった空白が埋まっている方がよっぽど幸せだと、天馬は葵に隣にいて欲しかったとこの時素直に感じていた。



 冬が終わり、春が来て再び並木道に桜の花が満開になる頃、天馬は変わらずひとりで通り過ぎる筈の場所に葵が立っているのを見つけた。
 冬の別れ以来、朝は一緒に登校しなくなったものの、全く交流が絶えた訳ではない。それでも、久し振りに見る光景に、天馬は自分が声を掛けて良いものか躊躇った。だけど呆気なく、天馬に気付いた葵の方が彼に向かって口を開いた。

「天馬、一緒に学校行こう」
「え…、でも」
「うん、今日だけ。話したいことがあるんだ」
「…そっか」

 話したいことなら、あの時の自分にだって沢山あったのに。天馬は葵の変わらない態度に、苛立ちと寂しさと不安を覚え、そしてこれから葵が話したいということも、自分にとってはあまり良い話題ではないのだろうと察しをつけた。

「私、天馬が好きだったよ」
「…俺も葵のこと好きだよ」
「そういう好きじゃないよ。恋だったの。天馬のたった一人の特別になりたかったの」
「………」
「だから離れたの。幼馴染の位置はすっごく大切だったけど、私が欲しいものではなかったから」

 語られる真実が、まるで他人事のように遠い。全てを過去形で語る葵の現在の気持ちが何処にあるのか、天馬には分からない。葵の言葉は天馬にはやはり難し過ぎた。

「離れたけど、手に入る訳じゃなかったね」
「葵」
「…なあに?」
「キスしていい?」
「…うん、良いよ」

 何故唐突にそんな要求をしたのか、天馬自身簡潔に、明瞭に説くことは出来ない。天馬への恋を終わったもののように語る葵が、あっさりと彼の願いを聞き入れたのかも解らない。
 ただ向かい合って、一瞬だけの触れるようなキスをした。
 離れて、至近距離で見つめ合って、先に涙を零したのは天馬だった。ぽろりと一筋伝った涙は、きっと天馬の恋だった。気付きもせず、求めもしなかった葵の特別になりたかったという気持ちは、知らない内に天馬の奥底で確かに存在していたらしい。
 だけど、もう遅い。
 擦れ違うこともなかった。時間が流れ、季節が移り変わる風景の中に溶け込んでいた気持ちは、きっと当たり前が砕けた瞬間、一緒に壊れてしまった。この涙は、その残骸。
 恋と呼んでみたかった。恋と呼んであげたかった。今更唱えてもどうにも戻らない心を前に、天馬も葵も動き出すことが出来ない。

「俺、葵のこと、ちゃんと好きだったよ」

 離れたら砕けるような、淡い気持ちだったけれど。時間と共に自覚する筈だった気持ち。
 突如目の前で審らかになった真実は、二人にとって痛みばかりを連れてくる。見たくなくて、聞きたくない、そんなものばかり。
 靄が掛かったように、すっきりとしなかった心がこんなに短い会話でクリアになって、痛くなる。それならば、もう少しだけ知らない振りをして迷っていれば良かったなんて思うのは弱さだろう。
 それでも、数分後には訪れる本当の別離という悲しい現実にだけは、やはりもう少し目を伏せて葵と向き合っていたかった。



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両の目で見ておいでなさい
Title by こんの様/15万打企画





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