南沢がその日茜と帰り道を共にすることになったのはほんの偶然で、どちらもそこに特別な意味など探ることもしないような、そんな滑り出しだった。
 外で活動する運動部には、夏の日照時間の長さは練習量と比例するものである。家庭によっては夕食を食べ始めるような時間まで学校のグラウンドでボールを追いかけているサッカー部のマネージャーである茜の下校時刻は、当然ながら一般生徒のそれよりも大分遅い。もし今の季節が夏でなかったら、南沢はこうして下校中の茜に遭遇することはなかっただろう。
 暗いから送っていくと言いだしたのは南沢の方で、深い意味はなかった。もう雷門の生徒ではないが、一時でも同じ顔見知り、しかも年下の女の子に午後八時前に鉢合わせて素通りして別れるなんて出来なかった。自分の行動に自分が一番腑に落ちなくて色々理由を探ってみるけれど、そういえば朝のHRで担任が最近変質者が多く出没しているから気をつけるようにと連絡があったことを思い出して、だから余計に気にかかっただけだと半ば強引に自分を納得させた。
 一方南沢の申し出を受けた茜はといえば、辞退を申し出るでもなく、悪びれるでもなく不思議そうに首を傾げるだけだった。そして南沢に向けられている二つの瞳はやたら雄弁に彼に何故、と語りかけるのだ。

「最近変な奴とか出まくってて危ないから送ってく」

 要件と動機を、決定事項のように凛と唱えてやれば茜は数秒南沢の言葉を咀嚼する為に費やし、何も問わずにお願いしますと頭を下げた。その瞬間、彼女が手に抱えていたカメラのレンズが光って南沢の目についたけれど、その時はそういえば彼女はカメラを常備していたっけともう懐かしい雷門での記憶の中に在る茜の姿がよぎっただけだった。
 話が纏まると、茜はすんなりと歩き出したので、南沢はその隣に並んで歩調を整える。どうやら茜のペースは普段の自分のものよりも数段遅いらしい。ゆったり過ぎて足がもつれそうだと、南沢は慣れない歩調に若干の苛立ちを覚える。それと同時に、毎日部活で帰る時間が遅いのに、こんなゆっくり歩いていたのでは尚更危険な目に合う可能性があるのではと危惧する。身に危険が及ばずとも親は心配するだろうに、とも思う。尤も、自分にはあまり関係ない話だと心の内で付け足すことも忘れない。

「びっくりしました」
「――何が?」
「南沢さん、正直他人のことなんて関心なさそうだと思ってたから、すれ違いそうになった時、気付いて声を掛けてくれるなんて思いませんでした」
「確かに、何でだろうな」

 転校前に、特別交流があった訳でもないけれど。茜の言葉は妙に普段の自分だったら声も掛けず、気付くことすらなかったかもしれないという予感をリアルに掴み取っていて、南沢は何だか落ち着かない心持ちになる。まるで、自分が物凄く似合わないことをしているみたいだった。しかも、茜の為に。
 隣を歩く茜の方に目だけを向ければ視界にちらりと彼女のトレードマークとも呼べるピンク色のカメラがまた映り込んでくる。そしてそのレンズを通して、彼女が毎日眺めているであろう風景を想像しながら、南沢にとってはもう懐かしいとしか形容出来ない光景が瞼の裏に浮かぶ。同級生や後輩と、思い出す面子は様々に多いけれど、茜のカメラを通して過ぎる人影など神童拓人ひとりで十分だった。

「まだ追いかけ回してるのか」
「――はい?」
「神童の写真ばっかり、それで撮ってたろ?」
「…ああ、最近は部活のみんなの姿を撮るようになったんですよ」
「…へえ、」
「マネージャーですから」

 にっこりと南沢を見上げて、カメラを少しだけ掲げてみせる茜の姿は、彼の記憶にあるものと少しの齟齬を与えた。以前ならば神童にばかりカメラを向けて、シャッターを切る度に見せていた恍惚を含んだ笑みよりもずっと可愛らしく、魅力的に南沢には映った。
 その変化は、もしかしたら成長とも呼べるもので、南沢が身を委ねることの出来なかった雷門サッカー部の変化でもあるのだろう。
 あの頃。南沢は茜が構えるカメラの延長線に入り込むことは出来なかった。写真に撮られたかった訳ではない。ただ茜が写真に収めようとするものは間違いなく彼女に好ましく想われている象徴でもあったから、そういう意味では気になってもいたのだ。何故そんなにも、神童を視線の先に追い求めるのか、比較的他者との関係に冷めている南沢には理解出来ず、また興味深かった。

「ちょっと残念です」
「……?」
「南沢さんを撮ったこと、そういえばありませんでした」
「別に良いだろ」
「……でも、みんな南沢さんはサッカー上手だったって言ってたから、一度くらい撮りたかったです」
「……」

 ああ、映れたのか。そんな落胆に似た気持ちを呼吸に溶かしてそっと吐き出した。残念そうにカメラを両手に抱えて見つめたまま歩く茜がふらふらと車道に寄っていることに気付いたから、腕を引っ張って元の位置に修正してやる。すると茜はありがとうと礼を述べて目線をカメラから前方に向けてしっかりと歩き出す。ゆっくりなのは変わらない。
 自然に触れて離した腕から拾った熱は夜の気温に合わせて低いものだった。茜の存在を妙に意識しながら、南沢は最初に自分が車道側に陣取って歩けば良かったと反省する。一瞬触れただけで、胸がざわついて気持ちが悪い。

「南沢さん、見て下さい」
「あ?」
「月、とっても綺麗」

 茜は足を止めて、上空に向けてシャッターを切る。カシャ、と一度だけ鳴った音の側で、南沢はそれが自分には決して向かないことに一抹の寂しさを覚え、彼女が示した月を見上げる。
 真っ暗とは呼べない明かりに満ち溢れた街の上に広がる夜空に、くっきりと月が浮かんでいる。確かに綺麗な月だった。だが南沢にとっての綺麗とは美しさではなく紺色にぽつりと在る整然とした景色に対する賛辞であったから、茜の口にした綺麗とは若干のズレがあったけれど、それをざわざ弁明する必要はなかった。

「綺麗だな、」
「はい、とっても」

 ズレた気持ちを抱えたまま、南沢は茜と同じ気持ちの振りをする。それは、本当の気持ちに気付きかけながらも知らない振りをすることと似ている。距離を開けば風化するとばかり思っていた気持ちをまた奥底から見つけ出してしまった。だからといってどうしようもないから、南沢は自分が一番傷付かない傍観からの別離を選ぶのだろう。保身は割と得意だ。
 綺麗ともう一度呟いた茜が讃える月の明かりが、今の南沢には眩しかった。どれくらい此処に立ち止まっているのかも解らずに、危ないからと送ることを申し出た自分が一番彼女にとって邪で危険な存在なのだと暴かれないよう、南沢は月からも目を背けて俯いた。


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今夜は月が綺麗ですね
Title by 匿名様/15万打企画





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