春奈は時々、自分の脳味噌と、心と呼ばれる部分が、全く別の意思を持った存在として生きているのではないかと考えることがある。前者は比較的春奈の思い通りの理屈を並べ立ててくれる。正しくは並べ立てられたら理屈や御託が春奈の思ったことだ。だが心というものは心の臓とはまた違い好き勝手外界から受けた刺激に対して感受性豊かに乱れまくるのだから自分のものとはいえ手に負えない。
 頭ではこうすれば悲しむだけだと分かりきっているのに、心はただ気になるなら進めばいいよと春奈を急かす。だから、つい、手を伸ばして、触れて、落ちて、春奈はあーあ、と後悔する。やめておけばよかったのだと。
 こんな人を好きになるべきではなかった。松野空介なんて、自分にちっとも優しくない先輩を好きになったりするからこんなにも心が痛むのだと、春奈は毎日のように悲嘆に暮れている。
 松野は同じ部活の先輩だったけれど、春奈との交流は殆ど彼の気紛れによって左右されていた。気が向けばやかましさんとからかってくるのに、興が乗らなければ一切話しかけてこない日だってあった。ふらりふらりと他人との接触を交わしながら、数時間後には後輩である春奈の教室にまでわざわざやってきて、辞書を貸してとしれっと言ってのけたりもする。
 それって勝手じゃないだろうかと怒るよりも先に、やっと会話が出来て嬉しいと思うようになっていたのは本当にいつの間にかのことで、春奈は気付いたら松野のことが好きなのだと諦めるように自覚していた。恋の成就を目指して松野に積極的に近付いても、きっと逆に逃げられてしまうと予期していたから、出来るだけこれまでと変わらない態度で接しようと決めたのは、恋の自覚とほぼ同時期だった。
 両想いになるということは、相手を自分に繋ぎ止めることだと思っていた。自分から離れられない松野の姿など春奈は想像できなかったから、この恋は、きっとこのまま仕舞っておくことが正しい取り扱いなのだと信じていた。だけど咎められるような、悪い気持ちでもない筈だったから、無意識に松野の姿を追う視線や、雑音の中で彼の声を拾おうと集中してしまう耳を叱ることはしなかった。
 決して大きくはない背中が遠い。遠近法で言うなれば、遠いから大きくないのだけれど。

「やかましさんはどうして僕のことが好きなの?」

 そう、松野がまるで簡単なことを尋ねるように言葉を寄越したのは、春奈が彼に貸したままなかなか戻ってこない電子辞書を取り返しに来た時のこだった。廊下側の窓から、廊下で待つ春奈を手招きした松野は、辞書を差し出してそれを彼女が掴んでも自分の手を放さずにからかうようにじっと見つめてきた。からかいの色が滲む瞳は、告げてもいない好意をさも当然のように確信していて、春奈は何となく不愉快だと思った。この人は、女心を分かっているのかもしれないが、人間味に些か難がある。だから彼女はほいと作れるけれど、長続きはしない理由でもある。春奈は意固地な一面があったので、松野のそういう部分を好ましくないと認めてしまったら、屈することは出来ないと思い込んでいた。だから重なった目線は反らさないし、動揺して声を荒げることも頬を紅潮させることもしなかった。
 流れる空気は冷えきっていて、春奈はやはりこんな恋はするべきではなかったと眉を顰めながら、形だけの会話はしておこうと思う。

「私、松野先輩のこと好きだなんて言いましたっけ?」
「いいや?でも好きでしょ?」
「………」
「視線とか、結構熱烈なの感じるよー?」
「自分のことながら、なんで先輩みたいな人でなしを好きになってしまったのか理解に苦しみます」

 溜息を添えながらも結果として松野の言葉を肯定すれば、彼は満足したのか掴んだままだった電子辞書からあっさりと手を引いた。ここで春奈が羞恥心に耐えきれずそそくさと逃げ出してしまえばこの話はなかったことになるのだろう。それと同時に、松野は春奈の好意もなかったことにして振る舞うに違いない。
 ならばここで、断ち切って貰おうか。
 春奈はじっと松野を見る。松野も、珍しく春奈を見つめ返す。何を考えているのか読めない笑顔に少しだけ混ざる困ったような苦い色は、珍しさの所為か彼を見つめ続けてきた春奈にはくっきりと映り込んでくる。どうして僕のことが好きなのと尋ねられたら意図は知らない。返す言葉も、春奈にはない。だけど好きなんですと伝えても、松野はその気持ちを決して受け取らないだろう。そんなことは分かっている。

「…松野先輩」
「ん?」
「私、明日から先輩のこと好きでいるの止めます」
「へえ、出来るの」
「努力します。だから――」
「だから?」
「今日だけは目一杯好きでいても良いですか」

 きっと松野は、他人にありったけの好意を向けられても、それに心を動かすことの出来ない人間なのだろう。逆に気持ちを向けられることで無意識に伝わる応えて欲しいという願いが、いやに重苦しくて逃げたくなってしまう。それは、きっと誠意がないのとはまた別問題で。彼の心を揺らすに及ばない感情たちは、善悪ではなく結果として無駄として疎まれてしまうだこのこと。ただ人間は恋をすると思考の大半をそれに費やしたり、沢山の労力を注ぎ込む場合が多いから、叶わなかった恋をせめて自分だけでも可愛がってあげなくてはと責任転嫁甚だしくとも相手が悪いと嘆くのだ。

「明日からは、松野先輩を目で追ったり、駆け寄ったりはしません」
「明日からは、松野先輩に一番にタオルやドリンクを渡そうとはしません」
「明日からは、ただの同じ部活の後輩に戻ります。だから――」

 今日だけは、と続く筈の言葉をやんわりと制するように、松野は春奈の頭に手を置いて、優しく撫でた。身長差はあまりないけれど、やはり彼女は自分より小さい女の子なんだと実感し、意地悪だったなあと自分の行いを振り返る。謝罪も撤回もしないけれど、春奈が鬱陶しかった訳ではない。本人に伝わっているかは、割とどうでも良かった。

「先輩…?」
「じゃあ、今日だけは――」
「………?」
「僕も、やかましさんが僕のこと好きだってちゃんと受け止めようかな」
「…同情ですか、」
「気紛れだよ」

 優しさなどでは決してない。そう釘を刺すことを忘れずに、松野はまた近付きかけた春奈との距離を一定に戻した。離れた手は、彼の温もりを残すこともしなかった。
 春奈はまだじっと松野を見つめる。今日で最後と誓ってしまったこの恋は、きっとこの先春奈の心に寂しい日陰を作るだろう。暖かい明日なんてこの恋には訪れない。それでも今日だけは、言い放った通り目一杯松野を好きでいようと思う。
 ひっそりと散っていく想いを可愛がってやれるのは、結局自分自身しかいないのだから。



―――――――――――

きっと明日は優しくないから、せめて夢だけ見せてください
Title by 安住様/15万打企画



「#オリジナル」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -