新しい記憶は日々積み重なって更新され続けているのに、ふとした瞬間に昔の記憶がぽんと前に押し出されることがある。晴矢は、冬の訪れと共に唇の乾燥を嘆きながらリップクリームを装備する杏の隣で、去年は桃の香り付きのものを持っていたことを思い出していた。今年は、レモンの香りらしい。正直、口に含むことの出来ないものに食料品の香りを纏わせることになんの意義があるのか晴矢には理解出来ない。稀に色付きリップなんてものまで見かけるが、それはそれで口紅やグロスやらと違うのか男には疑問の多いところだった。以前正直に杏に違うのかと尋ねたときは全然違うわよと否定されただけで、詳しい説明はされなかった。されても、きっと真面目には聞かなかっただろう。晴矢は化粧品の知識など必要ないし、その恋人である杏も、あまり化粧気のある人間ではなかったから。
 杏が晴矢と出掛けるとき、鞄の中に化粧ポーチが常備されていることを晴矢は知っている。ファミレス等で女性が席を立つ際に「トイレか」と不躾に聞いてはいけないのだと、晴矢は杏にそのポーチを投げつけられて初めて反省した。ファンデーションやアイシャドウ、マスカラやビューラーなど晴矢には覚えきれない細々としたものを女の子らしいポーチにぎゅうぎゅうに詰めて持ち歩くのとは別に、杏はリップクリームだけはコートのポケットに仕舞っていてふと手持無沙汰になったときに思い出したかのように取り出して唇の上をなぞっている。
 晴矢はそんな杏の仕草をぼんやりと眺めながら微かに漂ってくる果物の香りに、それは食べられないのだろうかとそんなことばかりを考えて、杏にじとりと睨まれるのだ。「食べられないわよ」と先手を打たれて、言い訳するのも苦しくて視線を外すことで素直に負けを認める。

「お腹空いてるなら何か食べてく?」
「あー、金無いんだよ」
「だからってリップを物欲しげな顔で眺めるのはやめなさいよ」

 駅のホームで電車を待ちながら、吹き抜ける風に晴矢はぶるりと身体を震わせた。もう季節はすっかりと冬一色となっていて、風もいつのまにか突き刺すような冷たさへと変わっていた。駅のホームも、電車を待っている人間は他にもいるのに大半が風除けの出来る待合室へと転がり込んでいる。晴矢も最初は待合室でのんびり座って待とうとしたのだが、杏のあそこは逆に暑いし煙草臭いから嫌だの一点張りに負けて寒い中立ち続ける羽目になっている。その言いだしっぺの杏は、ちゃんと天気予報を見て服装を選びましたと言わんばかりにきっちりと防寒対策をしているようで、晴矢と違い寒さに震えるような仕草は全く見せなかった。うっすらとではあるが化粧の施された頬は、寒さの所為で紅潮することもない。チークによる人工的な紅がほんのりと散らばっていて、晴矢は人形みたいだと言葉にしないまでもそう印象を受ける。あまり、褒め言葉として思っている訳ではなかった。
 今一つ、杏が化粧やおしゃれと称して着飾ることに意味を見いだせないのは、やはり幼い頃から彼女の素を見続けて、慣れてしまっているからだろうか。ありのままの姿を好きになったんだなんて、別に杏が化粧をすることで不利益を被ったから止めさせたいという訳でもないし、激しくキャラじゃないので言えないし、言いたくない。ただ、化粧をしている間の、鏡と向き合ったまま何人の邪魔も許さないあの真剣な背中に物申したい気持ちは確かに存在していて、今度は隣に立つ杏の顔をしげしげと見つめる。晴矢からの視線に気付いても、たじろぐどころか真正面から見つめ返してくるのは、これも一つの慣れというものだろう。何見てるのなんて照れて噛みつくような初々しさはお互いにもう残っていなかった。

「――何?」
「別に。今年のリップは色付きじゃないんだなってだけだ」
「覚えてるの?」
「レモンの香りと色付きだろ」
「あれ使い切る前に失くしちゃったんだよね」
「毎年一本は失くすよな、お前」
「大体上着のポケットに入れてるからそこにないともう何処に置いたか全然わからないんだもん」
「んー、ところで去年のあれはレモンの匂いで色も黄色だったのに何で唇はピンクになるんだよ?」
「そうじゃないと売れないからでしょ」
「あっそ」
「拗ねないでよ」

 言葉の掛け合いを好むのは構わないけれど、正解を知りもしないのに話題を広げても収集がつかなくなるだけだと杏は思う。ひっそりと溜息を零せば、吐き出した息はもう白い。今度は杏の方からじっと晴矢を見つめる。会話を投げて寒い寒いと震えている彼は向けられる視線に直ぐには気付かない。お気楽なことだ。杏が去年使っていたリップの形状を覚えていながら、何故それを今年使っていないのかという理由には思い至らない能天気さが少しばかり憎らしい。杏は割と去年使用していたリップを気に入っていたというのに。

「うわ、気持ちわりい」

 去年、リップを塗り直した直後に杏とキスをした晴矢が近くにあった鏡を覗き込みながら低く呟いた言葉。自分の唇に少しだけ色移りしてしまった彼女のリップのピンクが気になってしかないらしかった。それ以来、杏は色付きのリップを着けないようにしようとこっそり決めていたりする。自分に言われた言葉ではないけれど、「気持ち悪い」とはなかなかにひどい言葉だと思うけれど、晴矢だから仕方ないと思う部分もあった。

「ねえ晴矢、キスしよっか」
「はあ!?」
「今ならなんとピーチの味がするわよ」
「いやいや腹は膨れねえし」
「ごちゃごちゃうるさいなあ」

 じゃあもう良いと背けようとした顔は、文句を垂れながらもその気になっていたらしい晴矢に抑えられていて、近いと思うよりも先にお互いの唇が触れていた。場所が場所なので、直ぐに離れてしまった唇を晴矢は舌で舐めて、間を置いて顔を顰めた。

「桃じゃないな」
「そりゃあね」

 不味いとは食べ物じゃないから言わなかったけれど。晴矢は切実にはやく冬が終わってくれればと願う。でなきゃ、杏はその可愛らしい唇にリップを塗ることを止めてはくれないのだから。キスをする度にこの妙な後味を味わうのは気が滅入る。だけど、それを理由に杏とのキスをお預けにする気は毛頭ない。色付きのリップを塗っていなくとも、杏の唇はピンク色にぷっくらとしていて、意地悪く晴矢を誘っているようだった。


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だって唇はピンク
Title by『恋するブルーバード
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