※死ネタ手前 「できればずうっと手を握っていて欲しいの。私が眠りに着く時などは特にね」 白いベッドの上で上体を起こしながら、葵は窓の外に向かってぽつりと吐き出した。それは、決して期待などしていないという姿勢の表れで、ベッドを挟んで窓とは反対側に置いてある椅子に座っていた剣城はただ黙って彼女の手を握った。真白なシーツの上に投げ出された葵の手はシーツの白とは違うものの色で表すならば白以外の何物でもなく、また細かった。病室のシーツというものは、どうしてこうも清潔さよりも病的な印象を拭えないのだろうかと剣城は常々疑問に思っている。それは、彼の兄が脚を悪くして入院し出した当初から思っていたことだった。 葵が剣城には良く分からない病気を患って、病院のベッドの上に縛り付けられる生活を送り始めてからの日数を、剣城はもう数えてはいない。途中までは、何となくしっかりと数えていた。たしか、二百三十六日目までは数えていたのだが、それ以降はぱったりとカウントしていない。その途切れた日に何か切欠があったのかもしれないが、それすら剣城はもう覚えていなかった。 剣城は良く分かっていない葵の病気のことを、何故か天馬はほとほと正確に理解していて、そんな彼から伝え聞いたらしい信助もしっかりと彼女の現状を理解して見舞いにやって来る。それはきっと、葵が天馬にしっかりと教えと説いてやったのだろう。自分はこの部屋から出られないのだということを理解させなければ、きっと天馬は葵の元に毎日のように押し掛けていつ出て来れるのと尋ね続けたのだろう。それは、お互いを寂しくさせるだけだから、葵の取った対応はきっと正しかった。だけど、葵は決して剣城にだけは自分の病状を詳しく言い聞かせるということをしなかった。もしかしたら、剣城が問いかけなかったからかもしれない。決して、興味が無かったということではない。不躾に、簡潔に尋ねることはしたくないと思ったら、最後まで適当な言葉が見つからなかっただけのこと。ただ病室の入り口に立ち尽くしてベッドの上の葵を見つめる剣城に、彼女は微笑んで始終口を開くことはなかった。今になって思うと、もしかしたら涙を堪えていたのかもしれない。そう思うと、剣城はあの時下手な言葉を紡ぎ出さなくて良かったと少しだけ不器用な自分を肯定してやろうと思えるのだ。 これもまた、葵に釘を刺されたからなのか、彼女の病室に毎日のように見舞いに訪れるのは天馬ではなく剣城の方だった。それでも、毎日校門まで剣城と一緒に歩く天馬や信助、他の一年生だって本当は毎日だって此処に立ち寄りたいのは明らかなのだ。そう彼等の言葉を代弁するように葵に訴えれば、彼女は以前の笑顔よりも幾分力ない笑みで「ここは休憩所じゃないわ」と茶化した。 日に日に弱っていく葵の姿を、どこか夢を見ているようなぼんやりとした心地のまま眺め続けている剣城には、それが病気の所為なのか、狭いベッドの上でしか生活していない窮屈さからなのか履き違えそうだった。それほどまでに、葵はいつ訊ねても淡々と、だけども柔らかく彼を迎え続けた。 「でも私はここから出られないの」 ある日、剣城が葵にお前はいつ来ても元気そうだなと告げた時の、彼女の言葉。この時、剣城は何となく「ああ彼女は死ぬんだな」と予感した。突き付けられる現実はいたく冷たくて恐ろしいのに、言葉にすればたった一文字の死は、あとどれくらいの時間を彼女に残しているのだろう。探ろうにも、葵はそのことに関しては一切口を割らないのだから、強情にも程がある。 「本当にしんどくなって、もう駄目だなあって思ったらちゃんと伝えるよ」 「それじゃあ遅い」 「遅くない」 葵は自分の話題をはぐらかそうとする時、決まって窓の外を見ながら喋るようになった。あの、真っすぐと相手の目を見ながらはきはきと言葉を紡ぐ彼女はもう遥か遠く。それでも剣城にはつい数分前のことにように頭の中で記憶を再生することが出来る。見慣れていたジャージは、きっとこの病室には置いていないのだろうけれど。そしてもう葵がそれを着てグラウンドの上に立つこともないけれど。 ふと葵の腕を見れば同級生の平均よりも細く骨ばったものが目に映る。布団越しに浮かぶ足のラインも同様に細い。部活中、筋肉がつくのは嬉しいけれど腕とか足が太くなるのは困るだなんてマネージャー同士の会話が蘇って来て何もこんな形で細くならなくても良かっただろうにと嘆く。彼女とて不本意だろうけれど。 「…そういえば、天馬は元気にしてる?」 「ああ。お前がいた頃よりかは大人しいが、それなりにな」 「他のみんなも?」 「ああ」 「きっとみんな、背とか伸びてるんだろうなあ…。私の記憶の中のみんなとすっごく違ってたら寂しいな」 「なら、直接呼んで確かめれば良いだろう。あいつ等だって来たがってる」 「ダメよ」 それだけは絶対にダメよ。久しぶりに、剣城が届けた天馬たちの気持ちは、またも葵にきっぱりと阻まれる。そして、拒否の意を告げる葵は真っすぐに剣城の目を見てそれを伝えている。本音なんだと分かってしまうから、此処に来ることが許されている剣城の方が何故だか心苦しくなってくる。葵は、そんな剣城の葛藤も察していて、それでも愛しい幼馴染をこの場に呼ぶことを決して許可しようとはしないのだ。 「剣城君、私ね。…もう直ぐ眠たくなるの」 「………」 「だから、もしその時貴方が私の傍にいたのなら、どうか手を握って欲しいの」 「…わかった」 「そしてね、私がしっかりと眠りに着いたらゆっくり十数えてね」 「ああ」 握り続けている手に籠める力を一瞬強めれば、葵が嬉しそうにはにかんだ。それは、いつもの力無いものではなくて、剣城は何故もっと早くにこうしてやらなかったのだろうと後悔する。今この瞬間だからこその微笑みだったのかもしれないけれど、そんな悠長にことを受け止めていられる程時間が残されていないことは彼女の言葉からも明らかだった。天馬だったら、葵の口からもう時間が無いのと聞かされたらすぐにでも泣き出していただろう。もしかしたら、だから彼女は天馬を此処へは近づかせないのかもしれない。この部屋には、彼を悲しませずに済むものが見当たらないから。そう推測して、ならば自分はまだ泣くべきではないのだろうと剣城は気持ちを落ち着かせた。 目が合ったら、きっと瞳から自然と零れ落ちてしまうだろう。悲しみとか、喜びとか名付けようのない気持ちが混ざり合って、声も上げずに泣き出してしまうだろうから、剣城は葵の顔から眼を逸らした。彼女は何処か穏やかとすら思える色を浮かべて微笑んでいた。 「泣かないでね」 小さく葵が呟いた。「無理だ」と心の内で即答し、剣城はもう一度彼女の手を握る手に力を込めた。 このままずっと手を繋いでいられたら良い。彼女が眠りに着くその時まで。 ――――――――――― あなたのまつげが濡れないように Title by『ダボスへ』 |