神様神様、私のお話を聞いてください。
 照美の腹辺りまでしか身長のない少女は真正面から彼に抱きついて、くぐもった声で照美を神様と呼んだ。誰に聞いたか知らないが、神様だからといって見知らぬ男に抱きついてはいけないのだと、彼女の両親は教えていなかったのだろうかと照美は自分に抱きつく見知らぬ少女の見知らぬ両親に軽蔑にも似た気持ちを抱き始めていた。少女にはもう母親がいないことなど照美には知る由のないことで、勿論今現在自分に抱きついている少女に好ましい感情を抱くはずもない。

「君はどこから来たんだい?」
「あっち。ずうっとあっちの方よ」

 照美の問いに少女は素直に指を指して答える。間違っていない解答は彼女が駆けてきた方向で、照美の進行方向だった。照美は、そういうことが聞きたいんじゃないんだよと問い直したかったが、少女があまりに遠い距離を進んできたかのように発言をするから面倒になってやめてしまった。照美も知らない遠い所からやってきた迷子だったら更に面倒だと思ったからだ。
 話を聞いてくださいと駆け寄ったのは少女の方だったのに、先に問いを投げたのが照美だった所為だろう。少女はいつまでも自分の話を始める気配を見せなかった。自分の答えがちゃんと照美に伝わったかどうかを探るように下から顔を覗き込んでくる瞳に浮かぶ純粋さが、刺すように照美に次の言葉を急かしていた。

「君の名前は?」
「夕香。夕暮れの夕に香りの香って書くの」
「ふうん、夕暮れの香りかあ…。美味しそうだね」
「どうして?」
「夕方の帰り道は色んな家が夕飯の準備をしていて美味しそうな匂いがするから」
「神様も夕飯を食べるの?」
「勿論さ」

 夕香と名乗った少女は照美の言葉に意外と感動が混じり合った声を上げながら相変わらず彼に抱きついている。
 会話の内容と、夕香がしがみつく為に照美の身体に回している腕の位置が丁度腹周りにある所為か、そういえばお腹空いたなあと目の前の夕香には大した興味も抱けないまま考える。今日の夕飯は何だろうと予想しようにも時間帯がまだ早くて上手く行かなかった。想像を助ける夕飯を準備する匂いも漂っては来ない。
 仕方無い、と最後の暇潰し方法として漸く夕香を見下ろせば幼い双眸は一度たりとも照美から逸らされることなく彼を見つめ続けていた。聞いて欲しい話があるはずなのに、彼女は最初の一言以外、自ら口を開こうとはしていなかった。

「君、何か僕に話があるんじゃないの」
「聞いてくれるの?」
「聞いて欲しいんだろう?」

 しがみついて離れようとしないくせに、話を聞かないという選択肢が与えられていたというのか。照美は目の前の幼い少女が紡ぐ言葉の端々に浮かぶ矛盾や稚拙さを滑稽だと思わずにはいられない。自分を神様だと本気で信じ込んでいるのか、初対面の相手に向き合い優しく包まれることを望むかのような言動はやはり幼さ故としか言いようがない。照美はその幼さに特別感情を揺さぶられたりはしないけれど、きっとその幼さにふらりと引き寄せられて頭を撫でたり甘やかしたりする人間も世界には沢山いるのだろう。そして少女は身近にそういう類の人間がいるに違いない。だから他人の懐に入ることを迷わないし上手い。あざとくもあるその姿勢が許されるのは今の内だけだよと心の中で語りかけながら、照美は今度こそ黙って夕香が話し出すのを待った。気が長い訳でもないので、脳内で三十秒数えても黙りこくっているのならば突き放して帰ってしまおうなどと考えながら。

「とっても好きな人がいるの」
「…、へえ…」
「その人はねえ、夕香にすっごく優しくしてくれるの。頭を撫でてくれるし、話す時はしゃがんで目の高さを合わせてくれるし、飴をくれたこともあるよ?手を繋ぎたいってお願いしたらいやな顔なんてしないで手を取ってくれるもの。夕香のこと好きって聞いたら好きって言ってくれるの」
「ふうん、…それで?」
「でもその人の好きは、一番とか、特別とか、そういうものじゃないんだって」
「だろうねえ」

 察するに、少女の恋する相手は最低でも自分と同じ年嵩の人間なのだろう。甘やかしと愛情は違うし、当然恋情ではない。きっと夕香が身内から受け取り続けた愛情と、その想い人が彼女に差し出した甘やかしが似ていたから、彼女は自然と勘違いをして自分は愛されていると思いこんだのだろう。
 優しくされたという事実がある以上勘違いさせる方にも問題があるように思うが照美は夕香にもその想い人にもなんの思い入れもないから冷静に判断する。目の前の夕香はどう見ても小学校低学年の背丈と容姿をしている。そんな彼女が正しく恋心を理解しているとは思えない。正しくというと語弊がありそうだが、恋愛と呼ぶには夕香の気持ちは懐きの域を脱していないのではないか。
 正直、照美は恋愛沙汰に殆ど興味がないので相手が幼いとはいえ真面目に説教してやる気は毛頭ないけれど。
 だが少なくとも、夕香の想い人がどんな気持ちで彼女を甘やかしたのかは分かる気がした。
 ――拒まれれば、泣くんだろう?
 冷たくされるなんて、まるで知らないといった風でよく言うと思ったが、幼い彼女の人格形成には周囲の影響が著しいのだろうから、つまり随分と優しい人間に囲まれて育ったのだ。現在進行形で。

「夕香が子どもだから相手にして貰えないのかな」
「うん、そうだろうね」
「…神様は意地悪だね」
「神様は優しいものだと教わったかい?」
「ううん、そんなのいないって教わった」
「まあ人によりけりだからね。正しいよ」

 どうすればいいんだろう。話題を戻して俯いてしまった夕香に、年の差は埋まらないよと追い討ちをかけても良かったけれど、泣かれたら面倒なので止めた。
 だから代わりに教えてあげよう。埋まらない要素があるならば、他のもので埋めてしまえばいい。その想い人が甘いことは彼女の言葉から察しが付く。ならばずっと甘え続ければ良い。貴方なしではいられないと素で言えるようになるくらいに。離れたくなっても、甘やかし続けた結果として依存が生まれてしまえば最早片方だけの責任とは言えないのだから。

「それでもう少し大きくなったら既成事実でも作ると良いよ」
「きせーじじつ?」
「分からないなら良いよ。寧ろ意味が分かるようになってから作らなきゃいけないものだからね」
「ふうん…、神様はやっぱり何でも知ってるんだね!」
「まあね」

 心底感嘆している夕香を前に、照美は相手の男からすれば自分は悪魔だろうなあと内心ほくそ笑む。厄介な相手に捕まったことは同情するがお互い様だ。ならば相手により可哀想になって貰った方が心地良い。だって照美は神様なんかではなく意地汚い人間の一人で、そんな自分を割と可愛いと思っているのだから。
 何も知らない夕香は、未だに神様神様ありがとうと照美を見上げている。何だか無性におかしくて笑い出したいのを、照美は必死に堪えていた。


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だって私はこんなにも愛に餓えている
Title by『≠エーテル』




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