※剣葵←天
※信助目線


 いつだったか、天馬がぼんやりと窓の外を見詰めながら言った。

「世界が広すぎてね、嫌になるよ」

 夕暮の教室。一つだけ開け放たれた窓から吹き込む風にはためく白いカーテン。天馬が女の子だったら、きっと漫画のヒロインみたいに綺麗な画だったことだろう。物憂げなのか、退屈なのか。窓際で緩やかな風を受ける天馬は外にぼんやりと視線を向けていると思ったら、瞼を下してじっと何か考え込むような仕草をしてみせる。音もなく、動き回っている訳でもないけれど、天馬は落ち着きが無いねと茶化してしまいたかった。それをしなかったのは、閉じていた瞼をゆるゆると開いた天馬の瞳を覆うような薄い膜が夕陽の所為で煌いて、まるで泣いているみたいだったからだ。慌てて隣に駆け寄って見上げれば天馬はどうしたのと僕を見降ろして微笑んだ。逆光の所為で暗い表情ははっきりと見えなかったけれど、きっと天馬の笑みはへたくそだったことだろう。悔しいなあ、天馬がしゃがんでくれないと、僕は泣かないでと彼の頭を撫でることは出来なかったのだ。それが今でも僕の沢山ある心残りの一つだったりする。


 世界が広すぎると言った天馬は、サッカーボール一つを抱えてどこかへ消えてしまった。サッカー部の誰もが心配したし、怒り出す人もいた。マネージャーなんて今にも泣きそうに顔をくしゃくしゃに歪めるものだから、友達として毎日傍にいたのに何も知らない自分が申し訳なくて仕方なかった。
 天馬はひとりで消えてしまった。それはあくまで僕達の日常の中からという意味で、この広い空の下、きっと天馬はどこかでしっかりと呼吸をして自分の足で歩いてボールを蹴っているのだろう。心配と悲しみはいっぺんに抱くには重たすぎたから、僕はそのどちらも放り投げて天馬はいつか帰って来ると信じることにした。
 何も言わずに消えてしまうなんて酷いと誰もが嘆く中で、僕は何となく、天馬は何も言わなかった訳ではないのだと思うようになった。これも何となくだけれど、たぶん天馬は剣城にだけは何か言い残したんじゃないかと思っている。剣城は天馬が消えてしまった後も以前と変わらない風にボールを蹴っている。時折遠くを見るように動きを止めてしまうのは、何も剣城に限ったことではなくて誰も彼を咎めない。流石に、試合中にやられたらまずいけれど。
 天馬が消えてしまった穴は思った以上に大きくてきっと誰も彼もが心の内で彼を探さずにはいられないのだ。特に幼馴染という他の部員とは違った繋がりがあった彼女は心の内に留まらず、教室でもグラウンドでも帰り道でも無意識なのかよく視線を彷徨わせては悲しそうに眉を寄せて俯いてしまう。泣かないのは、きっと自分の所為で彼女が泣いたら天馬が困ると思っているから、人前では殊更泣かないように気を張っているのだろう。泣いてしまえば、どれだけ楽になるんだろうね。でも彼女が天馬を想っていてくれることが嬉しい僕は決して彼女に泣いて良いんだよなんて言葉は掛けないんだ。彼女のことはとても大切な友人だと思っているのに、僕は頑として今の立場を動こうとはしなかった。

「世界が広すぎて、嫌になっちゃうわ」

 いつかの天馬を思わせる台詞に、僕は日誌を書いていた手を止めて窓際に立つ彼女を見つめた。一つだけ開け放たれた窓、差し込む夕陽と吹き込む風。はためく白いカーテン。何もかもがあの日と重なって僕は思わず天馬と彼女に呼び掛けそうになってしまった。
 窓から外を見つめる彼女は何を思っているのだろう。もしかして、あの日の天馬と同じことを思っていたりして。そうだとしたら、僕には遠く理解の及ばぬことなんだろう。それとも、今ここで彼女に何を考えているのと尋ねればあの日の天馬の気持ちを今更ながらに知ることができるのだろうか。

「天馬を探しに行かなきゃって思うのに、世界が広すぎて何処を探せばいいのかわからないわ」
「わかったら、天馬を探しに行っちゃうの?」
「……どうだろう?」
「……」
「でも逢いたいよ」

 席に座ったまま見る彼女の横顔は、普段見てきたどんな表情よりも大人びて見えた。きっと、雰囲気に飲まれているだけなのだろう。あの日天馬に抱いた少女漫画のヒロインのようだねなんてミスマッチな形容は、今の彼女にも同じように当てはまるのだろう。
 天馬の幼馴染の彼女は、天馬の特別だったけれど恋人ではなかった。家族でもなかった。だけど友達以上ではあった。もしそれが他の人よりも感傷に耽る理由なら、天馬はきっと此処には自分の意志では戻ってこないのだろう。天馬と彼女の二人きりという狭すぎる世界が、僕等が日常と呼ぶ広すぎる世界に融け込んでしまった瞬間から、天馬は彼女と正しく在るべき距離を保つことを選んだのだ。

「葵はすっごく特別だよ。唯一なんだ。だけど、それは一緒にいた時間の長さがそうさせるんだよ」

 天馬と彼女の幼馴染という関係を、より親密な関係なのではないかと勘ぐる輩は割と多く、近くにいる。そんな連中がせめて天馬達から距離を取って噂に囁くだけだったのなら良かったのに。
 天馬が他人に彼女のことを話す時、いつからか寂しそうに微笑みながら語っていたことにどれだけの人が気付けただろう。わざわざ大切な人との距離感を強調しなければならないもどかしさは僕にはわからないけれど。一瞬でも強い衝動が湧き起これば、一緒にいた時間の長さなどもろともせずにその衝動を覚えた相手の元へと走っていける。恋愛による別離を肯定していたくせに、天馬は消えてしまった。嘘吐き。離れたくなかったのなら、そう言えば良かったじゃないか。縋れば良かったじゃないか。
 天馬が彼女に向けていた気持ちを、恋じゃないなんて誰が決めたっていうのだろう。いや、確かに恋じゃなかったのかもしれない。だけど愛ではあったろう。一体何に劣って彼女の傍にいられなくなるなんて思えたの。天馬が消えてから、彼女や周辺の人間を観察して初めて沢山のことに気付いた僕には、全てが手遅れでしかなかったけれど。

「……早く行った方が良いよ。剣城が待ってるんでしょ」
「うん、」
「剣城はああ見えて心配性なんだから!」
「そうだね」

 それじゃあと別れの言葉を交わして彼女は教室を出て行った。あの日、天馬ともこうして教室で別れそのまま会うことはなかった。だけど彼女とは明日もまた顔を合わせるのだろう。彼女をこの場所に繋ぎとめてくれる存在がいる限り。
 剣城と彼女が寄り添うことを不自然とは言わない。だけど僕が何の違和感もなく彼等と過ごすにはやっぱり天馬がいてくれなくちゃダメなんだ。でなきゃ、僕は息が詰まって彼女の名前すら呼べなくなってしまうんだよ。
 開け放しにされたままの窓の前には誰もいない。不意に、世界が広くて良かったと思う。だって、僕が泣いていたって誰も僕を見つけないのだ。はためき続けるカーテンだけが、小さく音を立てていた。


―――――――――――

あなたも泣いてるってせめて思い込むことにする
Title by『ダボスへ』




第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
- ナノ -