※パラレル


 茜の生活はずうっと待つことだった。直ぐに帰るからと言っていつも通り朝早くから仕事に出掛けていく男を見送って、茜はひがなその男の帰りを待ちわびていた。
 洗濯も掃除も午前中に終わらせて、昼食を軽く済ませたら食器を洗う。それから少しだけ庭に出て花壇をいじり水を撒く。先日植えたばかりのチューリップの球根は、まだまだ芽を出す気配を見せなかった。
 花壇の土が満遍なく湿り色を濃くしたら茜は水道の隣に使っていた如雨露を置く。中に水が残っていてもそのままだ。
 水をたっぷりと張った如雨露は重たくて、茜の細い腕に掛かる負担は大きい。ホースが欲しいと思ったこともあるけれど、茜は如雨露で水を撒くのが好きだったから、ホースを男にねだったことはない。好きから負担を差し引いても好きが残っているのだから、このままで良いのだと思えた。何より茜はまだ若い。
 茜の領域とも呼べる、彼女の趣味ばかりを取り入れて整えられた庭を歩く人間は彼女以外はいない。茜はこの庭に招くような友人を持たず、男は家のバルコニーからこの庭を眺めては綺麗だと褒めるだけだった。茜は、本当はこの庭を褒められるよりも自分の好きなように作り上げた空間を男にも好きだと言って貰いたかったのだけれど、今の所それはまだ叶っていない。
 ひとりで待つ時間を暇だと感じることはなかったけれど、寂しいと思うことはままあった。だから、以前一度だけ男に犬が飼いたいと頼んだことがある。猫でも良かったのだけれど、猫は気儘で外に遊びに行ったきり一日中帰ってこないこともあるそうだから、庭にしろ室内にしろ常に一緒にいられる犬の方が良いと思った。犬種は何でも構わないけれど、あまり大型でない方が良いかもしれない。様々に想像を膨らましながら、茜が男に犬が欲しいと頼むと、男は滅多にない茜からのお願いに一瞬驚いた顔をしたけれど、直ぐに穏やかに微笑んでみせた。

「でも茜は犬を散歩に連れていけないだろう?」

 男の言葉に、茜はきょとんと瞬いてああそうだったと自分の忘れっぽさに辟易した。
 茜は外に出ることが出来なかった。庭仕事など短期間かつ直ぐ近くならば問題ないのだが、それ以外で外に出ることは男からの言い付けで堅く禁じられていたし、茜自身外に出ようなどとは思わなかった。
 病気などでは決してない。ここ数年では風邪すらまともにひいていない。もし茜が体調を崩していれば、一人男の帰りを待つばかりの生活に、病身特有の心細さから疑問を抱くこともあり得たかもしれない。茜はただ、男が自分に外に出ずにこの家の中で彼を待ち続けることを望んだから、それに応えているだけなのだ。通常の感性ならばそんなことを望む人間をどうかと思うのと同様に、忠実にその願いを叶え続ける人間もどこか異常だと思えた。
 茜は男の言葉で犬を飼うことを諦めた。茜が男の影響で諦めてきたものなどきっと腐るほどあるのだろう。ひとまとめにしてしまえば、人生だとか。しかし茜は諦めたことや欲しがったこと自体を忘れてしまうから、男との間に諍いが起きることはなかった。どんなに寂しくとも茜が待つのは男が帰ってくるからだ。彼がこの家に帰ってきてくれる間は、茜はなんの不平も抱かずに日々を過ごしていられるのだ。そこに幸せか不幸せかの判断価値はなく、茜は自分が男を好きで、男もまた自分を好いていてくれるのならば他になんの問題もないと信じ込んでいた。
 ある日、男が帰って来ない夜があった。茜はずっと起きていたかったのだけれど、毎日規則正しい生活を送っているが故の眠気には逆らうことが出来ずにその日は眠ってしまった。朝になり、いつもと同じ時間に起きてみると、やはり男は帰って来ていなかった。男の寝室にあるベッドのシーツは、昨日茜が整えたのと全く変わらないままだった。

「お仕事が忙しかったのかな…」

 呟けど、この家に茜の言葉を拾って返すものなど存在しない。結局、男が帰って来なかったこと以外、茜は普段と何も変わらない一日を過ごした。
 だが、それから何日経っても男は帰って来なかった。段々と茜は不安になって、寂しくて、日課だった庭いじりも放ったらかしにしてベッドの中でしくしくと泣き続けた。
 ――寂しい寂しい寂しい寂しい寂しい寂しい。
 一人は寂しい。知っていた筈のことを、茜は今更になって身にしみて痛感している。男が帰ってこない。なら探しに行かなくてはと思うのに、その男によってこの家の敷地内から出ることを禁止されているという事実が茜をこの家に縛り付ける。
 自分はここで彼を待たなくてはならない。使命感にも似た執着。この言いつけを破ることは男を裏切ることなのだと思っていた。たとえ、その言いつけを守る条件でもあった、男が毎日この家に帰るという約束を破り茜を裏切ったのだとしても。
 涙で湿った枕に顔を埋めながら、茜はひたすらに男の帰りを待ち続けた。


 そうして男が帰らなくなってから何日か、何週間か、何ヶ月かが経過したある日のこと。茜にはもう時間感覚がなかったし、カレンダーや時計も長い間見ていなかったので正確な月日は分からない。ガチャンと鍵を開ける音がする。こんな大きな音がする鍵は玄関の扉以外にないだろう。家中が静寂に満ちていて、二階にある茜の部屋にまでその音はしっかりと届いた。
 のたのたとベッドから降りて、階段から下を覗き込む。最近ちゃんと食事もしていないから、動作の全てが億劫で仕方なかった。それでも、今鍵を開けて家に入ってきたであろう人物が待ちわびていた男であったのならば、茜は階段から転がり落ちることも厭わずに彼の傍へ駆け寄ったことだろう。

「…神様じゃない、」
「かみさま?…それって神童のことか?」

 茜の視界に入り込んできた人間は、ピンク色の髪を二つに結った人間だった。突然二階から降ってきた声に驚きながらも、茜の姿を見つけると直ぐに彼女の言葉に疑問を投げてきた。
 咄嗟のことに、茜は言葉にぐっと詰まる。誰かと会話することも久しぶりだったが、男以外の人間と会話するのはそれ以上に懐かしい。何より彼の言う神童とやらが茜の呼ぶ神様と同一人物なのかが分からなかった。
 茜は時々男を"かみさま"と呼んでいた。この家には男と茜以外誰もいないのだから、茜が誰かに呼びかけるということは必然的に男を呼んでいることになるので、あまり呼称は必要なかった。それでも以前は、茜は男の名を知っていて呼んでいた様にも思う。だがきっと忘れてしまったのだ。あまりにその名を呼ぶ機会がなくなってしまったから。そして偶の不便を補う為に神様と便宜上の呼称を拵えたのだ。

「あなただあれ?」
「…霧野蘭丸。君は?」
「……………あか、ね」
「どうした?」
「暫く自分の名前を呼ばれてないから…。あかね、そう、茜よ。忘れっぽいの、ごめんなさい」

 極端な閉鎖的環境にいて他者と触れあわないと自分の名前すら朧気になってしまうものだろうか。蘭丸にはよく分からないが、茜は自分の現状を忘れっぽいの一言で受け入れているらしかった。
 蘭丸は実は茜とは初対面ではなかったのだけれど、彼女の様子からして自分のことは忘れてしまったのだろう。寂しかったけれど、もう何年もあっていなかったし、環境が環境なだけに仕方ないのだと割り切ることにする。蘭丸が此処に足を踏み入れたのは、茜と感動の再会を果たすためではないのだ。

「突然で悪いんだが、神童はもう此処には帰ってこれなくなったんだ」
「神童?」
「君がずっと此処で待ち続けてる男のことだよ」
「どうして帰って来ないの?」
「遠くに行かなきゃいけなくなったんだ」
「その遠くはどの位遠いの?」
「もう一生待ってても会えないくらい遠くだよ」

 蘭丸の抽象的な言葉を理解する為に、茜は何度も「遠く」の一語を繰り返す。蘭丸は、黙って茜の作業が終わるのを階段の下から彼女を見上げつつ待っていた。自分の吐いた言葉が、今の茜の全てを壊す残酷なものだとは此処に足を踏み入れる前から気付いていた。思えばこの数年、神童は幼馴染である自分も含め友人を自宅に呼ぶことを一切しなくなった。その時点で何かあるとどうして疑わなかったのだろう。
 蘭丸が後悔に似た気持ちを浮かべ始めた時、茜の呼吸が乱れる気配がして、次いで嗚咽が零れ始めた。

「寂しい」

 ひっと短く息を吸い込み苦しそうに咳込みながらも、その一言だけは蘭丸の耳に途切れることなく響いた。
 置き去りにされ続けた茜は、今度こそひとりぼっちになってしまった。世間の時間からも隔離され続けた彼女はきっと何も知らないのだろう。自分が書類上では「神童茜」と記されて結婚していることだとか。神童になる前の苗字だって、きっともう忘れてしまっているのだろう。蘭丸は知っているし覚えてもいるけれど。

「寂しい寂しい寂しい寂しい寂しい寂しい」

 譫言のように寂しいと繰り返す茜に、蘭丸は掛ける言葉を持たない。そして突然、以前神童から聞いたことのある彼女の願い事を思い出して、言葉の代わりにその願いを叶えてやろうと思った。思い返せば、神童が自分から茜の話題を出すのは珍しかったが何かの縁だろう。

「山菜、犬欲しい?」

 山菜と彼女の本来の苗字で呼んでも、やはり茜は自分のことだとは思わないのか何の反応もしない。だが、やはり蘭丸は犬を飼ってやろうと思う。散歩にいけないのなら自分が代わりに行ってやれば良いのだ。
 そう決めて、蘭丸は茜のいる二階に向かおうと階段に足を乗せる。ギシッと音をたてた古くもないそれは、まるで自分を歓迎していないようにも映る。だがそんなことはお構いなしに蘭丸は一段一段と階段を上っていく。もう此処に帰らない男を待つ必要はないのだと解らせる為に、蘭丸は未だ俯いて涙を流している茜の肩にそっと手を置いたのだった。



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明日の世界を咲かせるために
Title by『≠エーテル』




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