夢の中で、ヒカルは海の中にいる。呼吸は勿論、身体を動かすこともできない。青い、深い海にどんどん沈んでいくだけの夢は、細く開いた唇の隙間から空気の泡が上へと昇って行くのを見送るしか出来ない。遠ざかる海面はやけに眩しい。太陽だろうかと、ヒカルは重たい腕を動かそうと試み。錆びついた機械が稼働するようなぎこちなさで、どうにか手を伸ばすのだけれど、それ以外の動作はやはりできないままで徐々にその光からも引き離されていく。
 ――届かないか。
 そう呟いて、ならば仕方ないと瞼を閉じる。それが夢の終わらせ方だと、ヒカルは知っている。



 アラタが誰の手を煩わせることなく早起きをする日はろくなことがないのだと、朝食の目玉焼きを咀嚼しながら眉を顰めるヒカルに、サクヤだけがヒカルの考えていることがわかってしまったようで困ったように笑った。この察しの良さが、アラタには足りないのだとヒカルは思う。一度の早起きで三度の寝坊が帳消しになるわけがないだろう。得意げな横っ面を抓ってやりたい衝動に襲われるが、食事中なのでやめておいた。夢の中では動かすことが出来なかった手を、ヒカルは今は自分の意思で動かさなかったのだとどこか意地になって確認しようとした。
 ここ数日夢見が悪い。ただ海の底に沈んでいく夢に良いも悪いもないのかもしれない。けれどヒカルはそれを悪い夢だと断じる。起床時間でアラタに後れを取ることは滅多にないのに、その滅多にない珍しい一日が偶々今日だったというだけだ。それなのに、アラタの得意げな態度に彼以外のジェノック第一小隊の面々はそのご機嫌を叩き壊すような真似はしなかった。ただ小さい子どもの様だなと呆れはしたけれども。
 支給制のSCと、決められた食事の時間。育ちざかりの子どもには、買い食いも満足に出来ない生活は胃袋に空きがあり過ぎてよくないとは考えなしにSCを駄菓子屋で消費するアラタの言で、どうやらヒカルが耳にするだけでもう5回目以上のダイエットに挑戦するらしいキャサリンとハナコは朝食のウインナーを一本ずつアラタに食べてくれと手招きしている。喜んで席を立つアラタを横目に見送って、ヒカルは眉間を押さえた。
 夢の中で、ヒカルは呼吸をすることが出来なかった。思い出して、無意識に呼吸を止めてみる。ものの数十秒で苦しくなって、呼吸を再開してしまう。それが普通だ。あんな風に酸素ボンベも身に付けず海底に沈んでいけば人間は死ぬしかない。想像して、ではあれは自分が死んでしまう夢だったのかと初めて気が付いた。悪い夢だとは思っていた。沈むというのはヒカルにとって良いイメージがない。殊にLBXに関しては、他者を沈めて上に立つ。勝者とはそういうものだと思っていた。一人で戦うならば、今も格別その認識に変化が表れているわけでもない。ただ、仲間という意識を持つようになったことはヒカルにとって間違いなく前進と呼んでいい変化だった。そうして仲間と認めたジェノックの面々の内、瀬名アラタに対する感情が行き過ぎたものになったと自覚した時、ヒカルは芽生えたその想いに口を噤むことにした。棄てようとは思わない。けれど育てようとも思わない。告げることはないだろうから、育とうが枯れようが構わない。そんな悠長なことを考えていた矢先のことだった――海に沈む夢を見始めたのは。
 ダック荘を出たのは、いつもヒカルたちが出たいと思っている――アラタが寝坊しなければ守られるはずの――時間で、神威大門統合学園の正門へと続く一本道は様々な仮想国の色に染まった制服で溢れていた。よほどのことがなければ、他国の生徒には誰もが無関心を装い(その実目覚ましい戦果を挙げる生徒が現れればその噂は驚くほどの速さで学園中を駆け巡る)、肩がぶつかることも睨みあうこともなく人の流れは穏やかに進んでいく。

「なあヒカル、今日の一限さ――」

 アラタが何か尋ねているが、ぼんやりと前を見ながらが習慣で足を進めるヒカルにはその内容がしっかりと耳に入って来ない。
「宿題なら昨日やっておきなよって言っただろ。机に齧りついてたらからてっきり終わらせたかと思ったのに、違ったのか?」

 けれど言葉は勝手に正確な答えを返している。

「やったけど自信ないんだよ」

 だから答え合わせさせてくれと頼むアラタに、まがりなりにも宿題を自力で解こうとしたのだなとハルキとサクヤが感嘆の声を挙げる。ヒカルは、だから僕がやれとせっついたんだってばと声を荒げそうになり、慌てて言葉を飲み込んだ。気色ばむことじゃない。ただ、ハルキたちに黙って欲しかったのか、アラタの普段の堕落をもっと自覚して欲しかったのか。自分の感情がどちらに揺れたのか、ヒカルにはわからなかった。

「だからさ、ヒカル――」

 アラタの声が一層遠ざかって、ヒカルはまた夢の中に連れ戻されたように身体の感覚が鈍くなる。
 沈んでいく。どこまでも深い海の底に、独りで、抗うことも出来ずに、呼吸もままならず、ぼんやりと差し込む光はただただ遠ざかって行くあのひんやりとした感覚。じわじわと死んでいく、それはヒカルだった。

「――ル、ヒカル!」

 耳元で叫び声。はっと気が付くと、アラタが怪訝に眉を顰めながらヒカルの顔を覗き込んでいた。距離が近過ぎて、視界が狭くなる。見えないけれど、ハルキとサクヤも似たような顔をしているのだろう。わかってきてしまう、人それぞれのパターンというものがあるから。アラタの手が肩に置かれている。もしかしたら何度か揺すられたのかもしれない。呼ばれていることにも全然気付かなかったけれど、ヒカルは今この瞬間に気付いたことがある。

「――アラタの傍は、息が出来ない」

 それはとても苦しいことだ。ヒカルは自分を心配して立ち止まった仲間たちに先んずるように歩き出す。背筋は常に伸びている。アラタからどれだけ離れれば、この息苦しさはなくなるのだろう。想像して、夢の中の光と、遠ざかって行く自分。そしていつも届かないと諦めることによって解き放たれる悪夢の世界が視界に重なった。
 ――ああそうか、光は君か。
 立ち止まって、ぽかんと口を開けて呆けているアラタを見る。放り出すことを選んだ、ヒカルの行き過ぎたアラタへの想いの名前を、世界はきっと恋と呼ぶ。男同士の自分たちでは、仲間として、ライバルとして高め合うことに喜びを感じている自分たちでは、決して打ち明けることが相応しくない感情だとヒカルは自覚して即座に判断した。アラタのように察しは悪くなかった。
 育てることを選べない代わりに、枯らすことも己の意思ではできないと思った。トドメを刺すのはいつだって恋心の先にいるアラタでなければ不可能で、そんなことを無知な彼に期待するだけ無駄だった。
 しかし育つのだ。想いは、傍にいるだけで勝手に育つ。心を操れない限り、ヒカルはいつまでもアラタの親しみという名の馴れ馴れしさに胸を弾ませて、痛ませて、息苦しくなっていく。それでもやはり、届かないのだ。伸ばす手が、重たい水に絡み取られてしまうから。それはモラルや恐怖と呼ぶもので、ヒカルはリスクを選べなかった。アラタの気持ちを手に入れる為に、アラタを失いかねない賭けは最初から乗る気になれない。

「――息、できた」

 アラタから離れて、ヒカルはほっと息を吐く。目測5、6メートル。視線がかち合うだけならまだ安全区域。アラタが一歩此方へと踏み出す。まだ平気。もう一歩、――平気。更に一歩、――は、また息が苦しい。
 測ったこの距離を、ヒカルはしっかりと脳に叩き込む。逃げる場所なんてこの島にはないのに。ダック荘にも、教室にも、コントロールポッドにも、保てるスペースは小さすぎるのに。
 それでもヒカルは、砕けるくらいなら沈みたいと思った。眩しすぎる光を見上げながら、かろうじて伸ばした手が届かないことを最初から知っているような、そんな諦観を抱えていた。
 空を見る。太陽が煌々と照りつけている。今日は暑くなるだろう。そうして、しかし夢の中で見る太陽の方がヒカルにはよほど眩しく見えたことを正直に心に刻む。それはたった一人、ヒカルの恋の先にいる彼そのものだということをヒカル以外の誰も知らない。その光が僅かでも届いている内は、ただ沈んでいくだけの夢であっても救われるとヒカルは思う。悪夢であっても構わない。
 アラタが追い付いて隣に並ぶ。どうしたんだよとしきりに話しかけてくる。何でもないと答えようとして、ひゅっと喉が鳴った。呼吸はまた、できなかった。



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どうしたって届かない世界で君は息をしています
Title by『√A』






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