※アラタ不在


 忘れ物はノート数冊と食べ終わらなかった疲労回復用のチョコレートが幾つか。元々支給品で固めていた日常生活だったから、島を出て行くときもやって来たときと同じ格好で出て行けばそれでいいのだ。けれども正直な感想を言わせて貰えるならば立つ鳥跡を濁さずということわざもるのだし、身辺整理くらいはきちんとしてから旅立つべきだとヒカルは溜息を吐く。世界を見てくる――言葉だけなら壮大な夢を持って旅立っていった隣人の抜け殻を前に、寮母であるトメから部屋の掃除を言い渡されたヒカルの手は一向に進む気配を見せなかった。初めてこの302号室に足を踏み入れたときのように、支給品の入ったつづらに物を仕舞い直せばいいだけならまだしも、処分しなければならない物の分別には流石のヒカルも躊躇いを覚える。アラタが計画性もなくSCを使って不必要な物を買っているのがいけないのだけれど。これからはヒカル一人で使用していくことになる部屋を、アラタの痕跡を残ったまま散らかしておくことができないこともわかっている。
 勉強道具は一切持って行かなかったアラタに、ヒカルはらしくもあると思いつつ義務教育中の彼の学力の心配を忘れない。届くことはないけれど、変わってしまうことに首を捻ってしまう稚拙な情は今まで通りの自分の振る舞いを選んだ。真面目に耳を傾けていなかった授業態度と反比例して書き込まれているノートを、ヒカルはうっかり処分してしまわぬように自分の机の上に置いた。突飛もない実現性の低い案からジェノックを救う閃きまで、アラタの想像の限りが詰まったノートだから。
 いつかはこの島に帰ってくるつもりだとアラタは言っていた。同じような言葉を残して去っていった仲間もいたし、言葉を濁して、ただこの島で得たものを失くさないとだけ誓って出て行った仲間も。約束の有無は問題ではなく、旅立ちという事実は一様に惜しんできた。ヒカルの性格では、満足にはなむけの言葉も渡せなかった面々が殆どだったけれど、嬉々として送り出したとだけは思われていない筈だった。遠ざかっていくフェリーに、いつかの自分を翳す感傷に浸る暇もなく島に残った自分たちは前に進まなければならない。この島を本当のLBX専門校を有する、世界中のLBXプレイヤーの憧れの地に変える為に。きっと日々は忙しく過ぎ行くだろう。今はただ呆然と広く感じているこの部屋に慣れきってしまう日がくるのかもしれない。
 既に何度か食事時に食堂に生徒たちが会すると浮き彫りになる穴を、今は誰もが落ち着きなく受け止めている。元から一人部屋だったサクヤもアラタがいないと随分と静かだと眉を下げていたし、部屋に余裕ができたことで今までハルキと同室だったムラクも一人部屋に移動する作業で忙しい。女子たちの方も部屋割りを組み直しているらしい。慌ただしい内が幸せだとヒカルはつづらの蓋を閉じた。あとはかけ布団と体操着を洗濯物として運び出せばいい。瀬名アラタという同室の人間の痕跡は、驚くほど簡単にヒカルの前から消えていく。この島のシステムはその点において非常に循環に優れていた。誰かが抜ければ、誰かが埋める。暇なく行われる交代劇には、確かに荷物は少ない方がいい。
 しかし現在セカンドワールドの使用が難しい以上、神威大門統合学園を新しい運営システムに乗せるまでは新しい生徒を迎え入れることはない。それはヒカルにとって、良し悪しを判断するべきことではなかった。けれど内心、安堵していることも事実なのだろう。アラタのいう不確定な「いつか」に供えて自分の隣を開けておけること。それを誰も咎めないこと。アラタの為の場所なんだと声を大にすれば、何人かは仕方がないと妥協してくれるかもしれないけれど。それでも、アラタの場所としてヒカルの隣を開け続けることができるかなんて保証はなくて、学園のシステムが変わっていけば今ここに残っている仲間とだって小隊を組んでいた頃のような付き合い方はしなくなる可能性も出てくる。怯えるようなことじゃないとして、変わりながらでしか進めないこの学園にアラタが帰ってきたときの光景が上手く想像できなくてもどかしかった。

「ヒカルは本当にアラタが好きだね」

 サクヤに言われた。

「ヒカルは本当にアラタが好きだな」

 ハルキに言われた。

「ヒカル、本当にアラタのこと好きなのね」

 ユノに言われた。

「ヒカルは、本当にアラタのことが好きなんだな」

 ムラクに言われた。
 ヒカルの抱える想いは感傷でしかないと、寂しがりな子どもの主張でしかないと慈しむような視線を向けられては流石に閉口する。ただ性質が悪いことに、ヒカルと交流の世界を接する仲間たちは大抵彼と同じような感傷を抱えながら瀬名アラタを振り返っていた。底なしの明るさに信頼を置いていつかの帰還を待ちわびても、確信と寂寞はそもそも別の感情なのだから同時に存在しても当然だと言わんばかりに、鷹揚に言葉にしてアラタの不在を惜しんでいる。
 ――僕だって、そりゃあ、好きだとも。好きだけれどもさ!
 回収したノートを、アラタが使っていたベッドに横たわりながら開く。案の定、板書よりも落書きが目立つノートだった。その筆跡が、増えていくことはもう暫くはないだろう。
 ヒカルは確かにアラタのことが好きだ。築いてきた信頼が、独りであろうとするヒカルの心をいつの間にか変えていた。あの日同じ船でこの島に降り立ったことに運命的な因果を感じるほどに、かけがえのない出会いだったといつかこの島を出たときに振り返るかもしれない。けれど今は、まだ。過ぎて行った日々を思い出の中で一区切りにしてしまうにはまだ早いのだ。
 アラタがいないから、憚りなく口に出してしまえる想いとはちょっと違うとヒカルは彼に向ける「好き」の意味について考えている。勿論顔を見て言いたいとか、そういう話ではなく。
 何の保証もなく放られた「いつか」という日々を馬鹿みたいに信じている内は、好きだなんて綺麗な思い出を眺めているような優しい響きでは到底告げられるはずがないということ。呑気なアラタが、どれだけの人間に慕われていたか自覚もなく笑いながらこの島に戻ってくること。そんな彼に、捨てられなかった私物を預かっておいてやったのだと文句を投げつけること。そんな日が来るまで、ヒカルはこの302号室で二つ並んだ机とベッドを持て余しながら生きていくのだろう。
 ヒカルはまだ、輝く海を渡らない。



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いつか返さなければならないものについて
Title by『さよならの惑星』



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