清廉と潔白を尊んでいたわけではない。ただひたむきに、眼差しは凛と前を向く。笑顔が微笑みに柔らかく変わる頃、彼はようやく子どもを名乗れるような気がした。心と体はいつだって健やかに成長し大人に向かっていたとしても。
 薄いレンズを太陽に翳した。この程度の薄さならば、彼の視界を遮りはしないと安堵する。視界をクリアにするための道具の眼鏡に対し、アミはそれがバンの物であるという理由で眉を顰めてしまう。彼の視界の広さも、心の中に描く、夢想の中に見る世界も他人であるアミには測れる筈もないけれど、共に在ることを望んで来たのならば確認しておいても損はない。年々父親に似ていくものだと周囲にからかわれるバンのはにかみを知っている。取り上げられた眼鏡を返すよう訴えるバンの手元には似合わない参考書とプリント。似合わないとは思うけれど、見慣れないとも思えなくなってしまった彼の装備品。勉強は好きではないと思っていた。バンの好きなものはいつだってLBXなのだから。けれどそのLBXの為ならば、LBXに触れることすら我慢して机にかじりつくこともできてしまう人だったようだ。

「熱心ね」
「ん?」
「勉強」
「――ああ、まあ目標があるしね」
「一直線」
「……怒ってる?」
「褒めてるでしょ!」

 憤慨は仕草に映える程度が戯れの証だった。腰に手を当てて頬を膨らませるわざとらしさが即ちわかりやすさだから。夢を追う彼がA国に留学するつもりであることを、アミはバンの家族以外の人間としては真っ先にその口から聞かせて貰った。反対する理由も権利もないのだろう。幼馴染の位置から動かないまま、アミはバンのひたむきさを見守り過ぎた。無条件で、アミはバンの行く道が拓けていることを願う。閉じていてもこじ開ける強さを持っていることもわかっていて、けれどそれでは手を貸したくなってしまう。着いていきたくなってしまう。この辺りが潮時だろうと、アミは見切りをつけたばかりだった。幼馴染は、いつまでも一緒にいる口実にはならないことをアミはもう随分と前から知っていた気がする。それでもその事実に見て見ぬふりをしてこられたのは、強化段ボールのジオラマの中を一緒に覗きこむことができたからだ。LBXという共通点が二人を結び付けてくれていた。結びついていたのは自分たちだけではないけれども、毎朝学校に行くたびに彼の家の前に立ち寄れるくらい仲を密にしてくれていた。
 バンが追うべき夢を見つけたとき、アミはそれを何気なく見送ってしまった。いいんじゃない、素敵じゃない、頑張ってね。あのとき少しだけ隙間が空いたのだ。衝突もしないで宙に浮いてしまう関係程落ち着かないものはなくて、アミは肩よりも下に伸びた髪の感想も尋ねられないままでいる。上り込んだバンの部屋は中学生の頃より目につく物が減り、年相応よりも幾分大人びた雰囲気の部屋になっていた。バトルは滅多にしなくなったと言いつつも、しっかりと手入れの行き届いたアキレスを初めとする歴代のパートナーたちは机の上に鎮座しているが。しかし勉強道具すらきっちり片付けられているというのは、アミがやって来るからこその状態なのだろう。手に抱えているのは、最後に放り込みそびれた一群に違いない。バンの母である真理絵は、バンの招いた客としてアミが訪ねて来ても彼を呼ばずに直接部屋に上げてしまうほどアミのことを気に入っている。食卓で冗談半分に「アミちゃんみたいな子がバンと結婚して義理の娘になってくれたら最高だわ」と言われたとき、恥ずかしさでバンは箸を放り出して避難したくなるほど恥ずかしかった。そしてそのことを彼が親友であるカズに愚痴っていたところをこっそり聞いてしまって以来アミも真理絵と顔を合わせるとちょっとだけ気恥ずかしい。そそくさとバンの部屋へ上がって行く背中にちくちくと刺さる視線に気付かないふりをする。これももう、長い習慣だ。
 二人きりでいることに息苦しさは感じない。ただ幼馴染というだけでは制限時間がある。それ以外を探すアミの瞳だけが忙しない。バンはいつだって泰然と彼女を見つめ、微笑んでいる。自分の居場所を定めた人間の怠慢だと詰ってやりたかった。そうするには、きっとアミはもっと我を忘れるほど追いつめられなくてはならない。しっかり者のプライドは、簡単には折れてくれないのだ。
 アミだってLBXと全く無関係の未来を選ぶとは思えない。けれどバンは自分よりももうずっと前を歩いている。彼が突っ走ってしまう性格だということは知っている。だから傍にいて支えてやりたかった。そうしてきた。けれど海を挟んでしまっては、それももう難しくなるからとアミは目を伏せることにした。今までだって寄り掛かってきたわけじゃない。それぞれの意志を持って生きてきた。これからは、身を置く場所が離れ離れになるだけだった。そう割り切れなければおかしいではないかと、今度は唇を噛むけれど胸に広がる苦い想いは消えない。これはきっと、幼馴染という言葉に包んで誤魔化してきた別の感情からの攻撃だった。

「本当にA国に行くの?」
「え? うん、行くよ?」

 つい口を出てしまった心細げな声に、しかしバンは何の疑問も抱かずに当然のことを答えた。それが不満だと唇を尖らせ、ベッドに腰をおろして膝を抱えるアミを眺めながらバンはただ穏やかに微笑んでいる。いつの間にかバンだけが成長してしまい、幼い彼女を可愛らしいと見守っているようだ。それはやっぱりアミにとって不満でしかない。
 他人の気も知らないで、貴方は遠くに行くと言う。当たり前のように傍にいた私を残して。私の中で暴れてる気持ちの名前も聞かないで、貴方は遠くに行くと言う!
 しかし具体的な不満を述べられるはずもなく、アミはただバンが微笑んだまま「眼鏡を返してよ」と伸ばしてくる手を叩き落として、ぷいっとそっぽを向いて、元々着けている自分の眼鏡の上から彼のそれを装着してやった。異なる度数のレンズが重なって視界がぐらぐらと歪んで見える。決して瞳が涙で潤んでいるからではない、そう言い聞かせてアミはぼすん、と大きな音を立ててベッドに倒れ込んだ。背中越しに感じた、バンの苦笑する気配が腹立たしいよりも悲しかったことがまるで別れを控えた証拠のように思えて、アミは何も言うことができなかった。
 そして何の言葉もない空間に、それでもここにいたいと思ってしまう自分の単純さに、少しだけ笑った。


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さよならの理由にならないのです
Title by『3gramme.』



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