ハナコは小さいものを可愛いと形容する。人間も、ぬいぐるみも、建物も、他のあらゆる生物も。明確な規定ラインがあるかは定かではないが、ハナコの中の、ある一定の許容量を超えたサイズのものは可愛いとは呼ばれずに、寧ろ自分に襲いかかってくるのではないかという恐怖心すら覚えるのか彼女は目をそらしてしまう。
 だからハナコはあまり男の子が好きではない。小さい頃はまだ良かった。控え目をどんくささとないまぜにされてからかわれることはあった。それは確かに苦痛ではあったけれど、恐怖ではなかったから。しかし成長するにつれ、同年代の男の子ですらハナコから見れば大きいと感ぜられる体躯に成長していくのを間近で見ていると肝が冷える心地がする。だから、女の子の傍にいると安心した。ハナコより背の高い女の子は幾人もいたけれど、それでもまだ男の子に比べたらマシだった。彼女たちの空気は一様に柔らかく、ハナコの固まりがちな気持ちを解してくれた。抱き締めることも、抱き締められることも容易かった。小さいものは、ハナコの手にきちんと収まるからいい。手に負えないものは怖すぎた。


 学園長が殺風景な校舎に文句をつけ始めたことを、ハナコは知らなかった。同じクラスのアラタは、ムラクと一緒に歩いているところを捕まって学園長の愚痴に散々付き合わされたらしい。数日前の、放課後のことだった。島全体のコンセプトとはいえ、もう少し華があってもいいでしょうと、頷く以外の返事を求めていない語気で。ムラクはその話に何の興味もなかったので、だからこそ最も効率的な答えとして学園長の意見を肯定した。アラタは、そういった機微を察することが下手で、けれど早く寮に帰りたくて仕方がなかったから、何か置けばいいだろうと提案した。花でも、銅像でも、或いはこの学園には無縁だが余所からもらったトロフィーだとか。具体的な内容を提示する必要なんてなかっただろうに、アラタの口を衝いて出てきたのは「魚とか」であった。それは、その日のダック荘の夕飯だった。
 だからこれは、アラタの招いた結果なのだろう。学園長室に続く廊下、生徒はあまり立ち寄らない。殺風景な廊下の一角に大きな水槽が置かれていた。その中を悠々と泳ぐ熱帯魚たちを、ハナコは追い駆ける。文字通り、自分の前を通り過ぎれば横歩きに、目を逸らさずに追った。
 学園長通達として、この魚たちの餌やりは生徒たちの仕事になった。一週間、各クラス順番で。朝登校してからと、下校する前。手間ではあったが重労働ではなかった。けれど面倒だった。学園の存在主旨からも外れた強要。教壇でこの決定事項を通達する玲奈は、自分には無関係と思うことで上が持ち込んだ無駄を受け流そうとしていたように見えた。手短に話題を打ち切る為に、玲奈は学級委員長と副委員長のハルキとユノにこの任を放り投げた。二人とも、不服を伝える相手を見つけられないまま了解するしかなかった。クラスメイトからの同情の眼差しを受ける二人は、それでも真面目に役目を果たすだろうとハナコは思っていた。
 ハナコは水槽の中を見つめている。魚たちが泳いでいる。どこから来たのと尋ねてみても返事はない。何処からでもいいのだろう。またここがどこでも。快適さが損なわれない環境があれば、それで。泳いでいるのは小魚ばかりで、ハナコはこの水槽がとても気に入った。可愛いと思った。ハナコの、それほど大きくない手でも、何匹でも捕まえられてしまいそうな錯覚にくらくらと視線が吸い込まれていく。

「――ハナコ?」

 名前を呼ばれて、びくりと肩を震わせて声のした方を見た。呼んだのはハルキだった。手に小さな箱を持っていて、そういえば今週はジェノックが餌やり当番だったかと思い出した。そういえば、ハナコがここに来たのも、図書室の帰り道にもしかしたらユノが来ているかもと低すぎる可能性に期待したからだった。ユノはいなかったし、人気すらなく、水槽の酸素ポンプの小さな音だけが耳に届いて、ハナコは引き寄せられてしまった。
 ハルキは、予想外の人物が水槽に引っ付いていたことに驚きながらも自分の用件を早く済ませてしまおうと箱から餌を摘まみあげると水槽の中に振りまいた。魚たちが一斉にハルキの方に寄って行く。ハナコが追い駆けていた魚も、他の魚たちに紛れて区別がつかなくなってしまった。
 よほど悲しげな顔をしていたのだろう。ハルキは驚いたように瞳を見開いて、それからすまなそうな顔をした。その顔に、今度はハナコが申し訳なくなってきてしまう。男の子を怯ませたつけが自分に回ってきたらどうしようという過剰な妄想と相俟ってぎゅうっと身を縮こませた。

「ハナコは魚が好きなのか」
「――へ?」
「わざわざ見に来るなんて」
「う、ううん。ユノに会えないかなあって、思ったんだけど…」
「ユノなら教室だ。今日は美都先生にもう一つ仕事を頼まれて、そちらを先に進めて貰ってるんだ」
「そうなんだ…」
「すまないな」
「えっ、いいよ全然! ハルキくん悪くないもん!」
「そうか。いや、あんまり悲しそうな顔をされるものだから……」

 ハルキはハナコの方にやってきた。瞬間、思わず身構えてしまったけれど、ハルキはただ大きすぎる水槽にむらなく餌をやる為にこちら側へ来ただけだと理解して、気恥ずかしくなる。ハルキはハナコを追い越して、水槽の端っこにまた餌をやると、箱のふたを閉じた。これ以上は、水を汚してしまうと思ったのだろう。水槽の掃除は生徒の仕事ではない。けれど魚たちにとっても良いことではないからハルキの選択は正しい。そのまま立ち止まって、水槽の中を眺めるハルキとの距離は先程よりも近くなっていた。

「グッピーだ」
「グッピー?」
「魚の種類。グッピー、ネオンテトラ、それとアルジーイーター。あとは――わからない」
「そんなにいっぱいいるの?」
「いる。小さいから、こんなに大きい水槽だと数を入れないとかえって寂しく映るんだろうな」
「……でも、可愛いよ。この子たち、小さいから…」
「小さいから、可愛いのか」
「う、うん…。たぶん」
「そうか」

 ハルキは、ハナコの小さいから可愛いという個人的な根拠をとても興味深い意見とでも言わんばかりに咀嚼しているようだった。水槽に視線を送って、同じような感覚を自分も抱けるだろうかと試しているようにも見えた。あくまでハナコの感覚であるから、真剣に実証しようとしないで欲しい。否定されてしまったときに、貴方は貴方、私は私と言い返せるだけの気丈さを彼女は持っていないのだ。

「ハ、ハルキくん…」
「ん?」
「教室…戻らなくていいの? ユノ、いるんでしょう?」
「ああ。――ああ、そうだな。ハナコはもう帰るのか?」
「……もうちょっと、魚見てる」
「そうか」
「一生懸命ご飯食べてるの、可愛い」
「小さいから?」
「うん」

 ハナコの迷いない返答に、ハルキはまた感心したように頷いた。そんなに新鮮な意見だとは思えないのだけれど。水槽に両手をつけて、平行に向かい合う。こうすれば、もうハルキと会話する隙間を塞いでしまえる気がした。露骨すぎては嫌味だろうけれど、他にどうすればいいのかハナコにはわからない。
 ハルキは、彼女の頑なさを見咎めることもなく。しかし無視もしてくれなかった。

「――可愛い」
「え?」
「水槽を一生懸命覗き込んでるハナコは、小さい子どもみたいで、可愛いな」
「―――。……ほ、褒めてないよお!それえ!」
「ははっ、そんなことはないさ」

 悲鳴のような声になった。けれどハルキは笑っていた。ハナコの反応に満足がいったみたいに。
 やっぱり男の子は可愛くない。ハナコより大きい男の子はみんな。顔を赤くしながら憤慨しきりの彼女は気付かない。自分を見つめるハルキの眼差しの優しいこと。その意味は、ハナコを可愛いと形容しただけで済むものなのか。いつか突然礼節の中から牙をむいて襲いかかって来るのではないか。
 やがてくる外敵を知らせるように、悠々と安全な水槽の中を泳ぐ小魚がアクリルの板越しにハナコの小さな掌をつついていた。



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ホオジロザメが通ります
Title by『ダボスへ』





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