※27話以前



 タダシはじっと正面を睨んでいる。そのことが、やけにノゾミを愉快な気持ちにさせた。何もない場所を凝視する彼の口元はぎゅっと引き結ばれていて、今にも向こう側から何かが飛び出してくるのではないかと疑って、怯えているかのようだ。予期せぬ出来事というものは、本当に人間の予測を越えた場所から突如やってくるものであるから一概にタダシの警戒心を否定することもできないのだけれど。けれどノゾミの緩く弧を描く口元が彼と同じように緊張に結ばれることはない。ジェノックの教室。二年五組。自分たちの席につきながら、まさか黒板を突き破ってくる物があるとは思わないし、教室に満ちた静謐を破るものが常識的にドアから入ってくるとして、一切の物音を立てずにやってくるとは考えにくかったから。

「――もう帰りましょうか」

 ノゾミの溌剌とした声が、一瞬で世界を塗り替えた。タダシは驚いたように瞳を見開いて彼女の方を見遣り、それから悩んでいるようだった。ノゾミの提案に乗るか否か。しかし時はもう放課後で、タダシたちが属する第五小隊に任務はなかったとはいえウォータイムの時間もそろそろ終わりを迎えるころだ。下校時刻が決まっているかどうかを、タダシもノゾミも知らなかった。知らなくても、この学園は居心地がいいと長居を決め込むには窮屈だったから誰もが家路を急いだ。家路に就けることを安堵していた。この島にやってきたときはもう少し心に余裕と輝きを持っていた筈なのに不思議だと思う。余所の仮想国に属する人間とは排他的な付き合いを望まれるし、時には同じ仮想国に属する人間すら最低限の交流しか持たない。外側に兄が在籍していたノゾミは、そういった線引きには比較的寛容であったように思う。そんな彼女を介して兄と交流を持っていたタダシも。本当は誰もが、確かな実力を持ってこの島にやって来た相手を尊敬していてもおかしくはないのだ。とはいえいつの間にか、小国の肩身の狭さと快適さは相反するのに行き着く場所はジェノックという仮想国の内側だった。

「もう少し残っていく?」
「………いや、帰ろう。玄関が混む前に」
「そう。じゃあ急いで」

 最初の提案を飲むのなら、もっと早く決断してくれればいいのにと憤然とした気持ちになる。しかしそれは純粋な怒りではなく、本当は自分でさっさと決められることの全てをノゾミの提案を受けてから逡巡する愚かさへの呆れだった。この島で、役割はあれども必要以上を他人に委ねてはいけない。島の外であったとしても、きっと。
 だから、タダシのノゾミに対する信頼は心地良くもあるけれど怖くもある。傍にいれる平然を、恒久とは呼ばないことを自分たちは知っているはずなのに。兄の残した忘れ形見のように思っていなければいいけれど。それは自分が彼を、それとも彼が自分を、なのかノゾミにもわからない。端から否定してかかるつもりでいることを突き詰めてはいけない。ボロが出るから。

「カイトたちは、もう帰ったかな」
「いやだわ、そろそろテスト前だからさっさと帰って勉強するって言ってたじゃない」
「――そうか。そうだったかな」
「タダシもウォータイムがなくて余った時間、カイトみたいに有効に使えばよかったのに」
「……ノゾミも同じだろ」
「あら、私は一応勉強してたわよ。気付かなかった?」
「………」
「形勢が悪くなると黙り込むのねえ」

 警戒心で口を引き結んでいた先程とは違い、不機嫌に拗ねたようにタダシは口を噤む。ノゾミは腰に手を当てて呆れたと呟く。ぼんやりしすぎるのも問題だ。集中力はある。それが如何なく発揮されるのは、彼が捨ててしまったライフルを持ったときがずば抜けていると彼女は勝手に決めつけている。我の強い隊長の元、意識を茫洋とさせている方が滞りなく日々は過ぎるかもしれないけれどこれでは。幸い、タダシよりも主張の強いノゾミはそれでいてきちんと女の子であったので、隊長であるカイトの横柄な態度に突き当たってもそれは同い年の男の子の自尊心として流している。
 比べて、理想を差し向けているわけではないけれど、カイトの根の真面目さは理解しているつもりなので、発破をかけるつもりで茶化した言葉は思いの外タダシのお気に召さなかったらしい。荷物をまとめると露骨にノゾミから顔を背けて教室から出て行ってしまった。特別歩調の速くないタダシがいくら数歩分のアドバンテージをとっても、帰る目的地が同じである以上ノゾミが少し小走りで駆け寄ればあっさりと肩を並べてしまう。

「カイトみたいになれとは言ってないわよ」
「………」
「以前みたいにライフルを持てとも言わない。本音は持ってほしいけどね」
「……言ってる」
「でもねえタダシ、もう少し一人に慣れなくちゃ。こうふらふらするんじゃなくて、時間を持て余さない程度の社交性はあったでしょう?」

 それを、ノゾミの兄が島を出た途端塞ぎ込むように全て放り出してしまわれてはこちらの胸が痛むではないか。タダシは何も言わない。教室側の廊下を歩くノゾミとは反対の、窓の外を見ているらしい。外は夕日で綺麗な橙色が広がっている。ウォータイムに参加した日は、外に出ると空のすそ野に薄い暗がりを引き連れている。やはり今日はいつもより早い帰宅となりそうだ。
 タダシの表情はノゾミの位置からは見えないけれど、窓ガラスに映り込んだ朧気な像を見つければきっと、また何かを警戒するような目をしているのだろうと容易に想像できた。その外敵は、ノゾミの口の中から放たれる。タダシはノゾミの言葉に対して遮断の姿勢を貫くことが出来ない。それほど内側に潜り込ませた親切な女の子は、彼自身不甲斐ないと項垂れる過去のトラウマを機に母親のような口ぶりを身に着けてしまった。それが、タダシを怯ませる最大の敵であることを彼女は気付いていないのだ。

「――ノゾミが、そうやって世話焼きみたいなことばかり言うから、だから俺は、ダメなんだよ。たぶん」

 廊下に蔓延する静寂を打破するように絞り出した言葉は、しかし何とも情けなくお門違いなものだった。当然、ノゾミは人のせいにしないでとタダシの背中を叩いた。その勢いにつんのめりそうになるものの、タダシとてわからないのだ。
 世話を焼いて欲しいとは思わない。けれどこんな風に折角の自由を持て余す自分の傍に当たり前のようにノゾミがいることはとても好ましいという事実。
 言いたいことだけ言い放ち、けれどそれも真意ですらないのだともどかしげにまたしてもぎゅっと口を引き結んでしまったタダシに、ノゾミは何も言わない。隣という位置は永遠ではないけれど、時間が許す限りはタダシが自分で納得のいく正しい言葉を選択し告げるまで待っている。それはタダシがノゾミの身長を追い越すのとどちらが先かはわからないけれど。



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うじうじ虫は国へ帰れ
Title by『にやり』




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