※精神崩壊アラタ
※捏造注意

 その島の外れには小さな屋敷がある。時代にそぐわない古めかしい情緒を纏う島の、繁華な区域から離れた場所。島内唯一にして最大の施設である中高一貫校から森を挟んだ先、海に面した崖の上にあるその屋敷には、心の壊れた少年が住んでいた。
 海を臨む。その瞳はビー玉のように澄み、受ける光を反射して返す。木々の隙間から零れる陽光も、海面に広がる煌めきも、決して少年の心の奥までをも照らしはしなかった。純粋でいて、邪な影を背負っている。清濁が渦巻いている。ここはとても静かな場所だった。不意に、藤色の瞳が悲しげに揺れた。そしてぼろぼろと大粒の涙が溢れてくる。止まらない涙を拭うという発想に至ることなく、少年はずっと海を見ていた。懐かしくて、悲しくて、怖くて、湧き上がる様々な感情を処理することができず、ただただ少年は涙を流し続けている。

「――それじゃあ、特に変化はないんだな」
「ああ。回復に向かっている様子はない。……症状の悪化も見られないが」
「それを喜んでいいのかは、微妙だな」
「そうだな。――会っていくか?」
「いや、俺だけ会ってしまったら怒られるからな」

 屋敷の一室。唯一の客間で法条ムラクは客人を迎えていた。かつてムラクも籍を置いていた学園の鐘が鳴る。時計を見て、昼休みが始まる頃だなと今となっては遠い出来事を思い出すように記憶をなぞる。あの学園を離れて、この小さな屋敷に移り住んでからどれくらいの月日が過ぎたかムラクは数えるのを止めた。目の前の彼なら覚えているだろうか。敵対する仮想国から移籍してきた自分に、真っ先に歩み寄って手を差し出してくれた出雲ハルキならば――。

「隊長ぶって、アイツを叱りつけていた頃が懐かしいな」

 しかしムラクが言葉を発するよりも先に、ハルキもまた回想の中に幸せを見ている。責められることではない。向き合わなければならない現実はいつだって過酷だから。曖昧な笑みで応じるムラクに気分を害することもなく、ハルキは席を立った。先程の鐘が聞こえていたのだろう。午後の授業には間に合うように学園に帰らなければならないとのことだった。同じように、学園で学んでいた少年の様子が心配でやってきてくれたのに、その姿を確認しないで帰ってしまうのだという。思えば、この屋敷を訪れる人間の大半がそうだ。心配する言葉だけを残して、けれど少年の為に何もできずに去っていく。そしてやはりそれは責められることではない。ムラクだって、何もできないのだから。壊れてしまった心を直すのは、LBXを直すようには上手くいかない。


 瀬名アラタの精神に限界が訪れたのは、幸か不幸か、セレディが引き起こした神威大門統合学園史上最悪の事件の後だった。世界の本当の姿を見つめなければならないと、島を出ることを宣言した矢先のこと。オーバーロードの副作用。必要ないと切り捨てたはずなのに、オーバーロードの力はアラタを放さずに、引きずり込んだ。
 アラタの精神崩壊の主だった症状は記憶障害だった。神威島に来る以前以降の記憶を失い、また新しい記憶もいつの間にか失ってしまう有様だった。言語機能に問題はないようだが、口数も極端に減った。懐っこい性格がひっくり返ったように塞ぎ込んだ。記憶を失った為に家族や友人もいない孤独な環境に混乱し攻撃的な言動も目立った。これには仲間たちもどう手を施していいものかわからなかった。もとよりただの子どもに専門的な治療が施せるわけもなく、直ちにアラタを医者に見せようとしたものの彼の症状の最たる特徴は決して島の外に出ようとしたがらないことだった。知らない人間に連れて行かれることを恐れるのではなく、アラタは島を出ることに不快感を示し、泣き喚き、隙あらば保健室やダック荘から逃げ出した。仕方がないからと医者を呼んで見せても元来精神崩壊の可能性を予期した時点でオーバーロードの研究は止まっていたのだ。具体的な解決策などありはしない。結局はその場しのぎに、美都博士の研究を引き継いで有効な治療法が見つかるまでアラタを落ち着いた場所に隔離することになった。港や商店街とは正反対の島の端に小さな屋敷を作って、そこにアラタと面倒と様子を見る誰かとで住まわせる。その同居人には、アラタと仲の良かった何人かが立候補したが最終的には法条ムラクが選ばれた。比較的、ムラクとの記憶が長持ちすることが決め手だったらしい。ぼろぼろと記憶を零れ落としているアラタではあったが、LBXを好きであった感情だけは失わなかった。そしてLBXは戦う相手を選ばない。相対して、ムラクとのバトルがアラタの空っぽになってしまった内側を満たす何かを持っている。アラタらしくもあり、だからこそ悲しいと肩を落とす友人たちに背をむけて、アラタとムラクはこの屋敷に移り住んだ。


 ハルキを玄関まで見送ると、ムラクはそのまま庭に向かう。柵と生け垣に囲まれた屋敷の庭は芝生の上に白いテーブルとイスが二脚置いてあり、アラタはいつもその内の一脚に膝を抱えて座りずっと海を見ている。状態が落ち着いているときはムラクにLBXをしようと声を掛けてくることもある。そういう時は、アラタは同居人がいるということを冷静に頭に入れている。酷い時はムラクを見かけた途端パニックを起こす。知らない人間が、自分の暮らしている建物内にいたら確かに驚くだろう。ここ数日はそういった事態はなく、また今朝の様子を見ても調子は悪くないようだ。
 海から吹きつける風は潮の匂いと絡みつくような重さを持っている。心地よいときもあるが、ムラクには鬱陶しさの方が勝る。後ろ毛を引っ張られるような感覚が鬱陶しくて、いっそ髪を切ってしまおうかと数秒悩み、アラタを混乱させるかもしれないとその案を打ち消した。出来るだけ、アラタが覚えていた自分を正しいものとして保存しておきたかった。

「――アラタ」

 海を眺める背中に声を掛ける。肩が揺れて、こちらを向く姿にいつかの残像を重ねている。ムラクを見つけると、瞳を輝かせて駆け寄ってきたアラタの姿を。大切で、大好きで、けれど失ってしまったもの。目の前にいるのに、どうして壊れてしまうのか。ムラクは毎日考えている。

「……ムラク?」

 呼び返されて、今日は覚えているのだなと息を吐く。アラタは時々、本当に時々だけれど壊れた心のまま過去の記憶を拾ってくる。それはムラクが敵だった頃のものから同じクラスの仲間になってからのものと様々だ。その時だけは、アラタの瞳はかつての輝きと力強さを取り戻す。そしてアラタの内側に、自分たちの知るいつかの彼が完全に消えてしまったわけではないのだと思い知らされなければ、希望なんて持てない。

「……誰か来てた?」
「ああ。――ハルキだ」
「ハルキ?」
「わかるか?」
「……わからない」

 会話の途中からムラクの客人への興味などないと言わんばかりに、振り向いていた上体をアラタは再び海に向けた。ぶつぶつと「ハルキ?」と数回呟いて、首を傾げる。心に引っかかるものはあるのだろう。ハルキだけでなく、星原ヒカルや細野サクヤ、鹿島ユノ等のジェノックの仲間の名前にはアラタは同じような反応を示す。けれど無理に思い出させようとすればまた心がパンクしてしまう。
 焦らずに、成り行きに任せて見守るように。確か、最後にアラタを診た医者は言っていた。きっとアラタを囲む誰もが心を一つにしていたに違いない。 ――何を悠長なことを言っているんだと。アラタが自分たちにとってどれだけ大切な存在か知らないから、そんな有り触れた患者の一例のような言葉を吐きだせるのだと。理不尽な怒りを腹に抱えて、あの頃ジェノックの誰もが俯いていた。ムラクもその内の一人だった。
 アラタの隣の空いている椅子に腰を下ろす。並び、海を見る。穏やかな気候、一日往復一本ずつのフェリーは今頃港に停まっているだろうか。アラタが島を出ることを頑なに嫌がると知って以降、ムラクも港には近付いていない。どんな色だったか、出港や入港の時刻、船の形状も朧気だ。汽笛の音だけは毎日この屋敷にも届くけれど。

「――ムラク」
「……?」
「ムラクは、島の外に行くんだな」
「アラタ?」
「いつか、みんな、行くんだ」

 今日のアラタは本当に調子がいいのかもしれない。ムラクのことを覚えていて、饒舌だ。生憎、その言葉の意図は理解できなかった。海を真っ直ぐに見つめる瞳はいつも通り清濁の中に在り、何も感ぜられない。そしてアラタはムラクがいつか島を出て行くと信じている。明日抱えていられる記憶すら定かではないのに、この未来だけは真実だと言わんばかりに。

「…みんな?」
「そう、みんな。……みんなって、誰だっけ?」
「ジェノックのみんなか?」
「ジェノック?」
「お前の大切な居場所だった」

 自分の言葉の意味が孕む穴に気付いたアラタの顔が歪む。眉間を押さえながら、小さい声で何やら呟いているがムラクには聞き取れない。二人の椅子の間にはテーブルがあって、いつだってムラクにはそれが二人を別つ絶壁だった。超えたとて、扉は閉まっている。

「頭、痛い」

 訴えに、弾かれるように顔を上げてアラタを見た。オーバーロードに目覚めてから何度も聞いて来た言葉だ。きっと誰もが悔いている。この僅かな痛みすら大袈裟に労わって、封じてしまえばよかったのにと。甘い物なんかで、鎮めてはいけなかった。根を絶たなければいけなかった。それをしなかった、怠惰に対する罰が――今。

「ムラク、俺、頭――痛い」

 助けてと手を伸ばす。痛みに蹲り、その手は拳となってテーブルの上に落ちる。
 ムラクはゆっくりとその拳の上に自身の手を重ねて、アラタの手を包んだ。伝わってくる熱は、昔からずっと変わっていないように思える。アラタはきっと、自分の熱など忘れてしまっているのだろうが。
 アラタが好きだった。恋という情欲で以て想っていた。無知な瞳がムラクと同様の色を孕んで彼を映した時、時間が止まればいいと願った。本当に、止まってしまえば良かった。過去は帰らない。けれどいつだって自分たちの後ろにあって今に繋がっているはずだった。だから立ち止まらずに歩いていける。崩れた常識はアラタを遠くへ連れて行き、ムラクは必死に追い縋る。それがこの離れ屋敷の日常だ。緩慢な時間の中でしか、アラタは生きていられないのだと知って尚、それに合わせてでもムラクはアラタの傍にいたかった。あの日の想いに嘘はない。過ちもまたないはずだ。変わらない想いがあることをムラク自身が体現しなければ、誰もアラタの帰りを待てなくなってしまうだろう。それだけが、ムラクには怖い。アラタが、いつかムラクとて島を出て行くのだろうと有象無象の人影に彼を放り投げて透かして見ていたとしても、それでも。

「―――」
「アラタ、」
「なあ、LBXバトルやろうぜ」
「頭痛は?」
「ん? 頭痛いの?」
「いや。そうだな、バトルするか」

 先程まで蹲っていたのが嘘のように、けろりと表情を変えたアラタが笑う。勢いよく椅子から立ち上がった拍子に重なっていた手はあっさり解けた。ポケットからCCMを取り出し、ムラクを急かす。精神を壊してから、アラタの表情が輝くのはLBXバトルを前にした瞬間だけだ。味気なく、彼らしく、かけがえのない瞬間だ。
 ムラクは眩しいものを見るように目を細め、それから耐え性のないままのアラタが機嫌を悪くするよりも先に立ち上がり、彼もまたCCMを取り出す。LBXは居間に置いてあるので、玄関よりも居間の長窓から取りに行った方が速い。
 全ての準備を終えてから、アラタとDキューブから展開したバトルフィールドを挟んで向かい立つ。そして、何度繰り返したか分からない、ムラクはもう、アラタが次いで何と言うかを知っている。残酷で無邪気な言葉が降る前に、ムラクはそっと瞼を閉じる。

「んじゃ、バトルする前に一応名乗っとくな! 俺、瀬名アラタ! ――お前の名前は?」

 壊れている。こんな暮らしも、世界も、何もかも。逃げ出したくて、こんなはずじゃなかったと叫びたくて、否定したくて。けれど同じくらい愛しい人が目の前にいる。だからムラクは、弱気になる自分の全てに蓋をしてこの壊れた箱庭に飛び込むのだ。ムラクはきっと、アラタの言うようにはこの島を出て行かないだろう。瀬名アラタという人間が生きている限りは、絶対に。
 もう何度目か分からない、アラタに対するムラクの名乗りは遠くから聴こえた汽笛にかき消された。



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Title by『ダボスへ』



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