前を歩く少女が跳ねる。テンポよく、どこか必死に。足元ばかり見ていても転んでしまう。だからできるだけ、ヒカルは少女の肩越しに遠くを見た。彼女を怯ませるものが対岸からやってきやしないかと。きっと何もない。やってきた海辺の向こうに見渡す街並みを恋しく思わない内は、何も。煌めく夜景に対比して、日が沈めばひっそりと静まり返るばかりのこの島をヒカルは苦とは思わなかった。喧騒よりも静寂を好んだ。大観衆の前で唯一の勝者で在り続けることに執着していた頃を思う。いつか自分はあの場に帰るのだろう。その為の通過点としてやって来た場所で、ヒカルは掴み過ぎた。仲間を、強さの意味を、反発した父親の真意を、目指す未来を、それから――。
 ぼんやりと波打ち際をぎりぎりで見定めて立ち尽くしていたヒカルの耳に、小さな悲鳴が届く。見遣れば、ヒカルが立ち止まったことに気付かずに歩を進めていた少女がつんのめり膝をついたところだった。砂浜で良かったと息を吐く。土の上だったとしても擦り剥いてしまっては痛々しい。親しみの外側で俯きがちな彼女がこさえる傷は、ヒカルには常人よりもずっと痛がって映り込む。それは欲目だよと誰かが言って、ヒカルは何かを言い返そうとしたのだけれども、隣にいた彼女が居心地悪そうに縮こまったから止めたときのことを思い出した。
 果たして。
 これは欲目だろうかと。目の前で、膝をついてふためくように周囲を見渡す少女の元に足早に近付いていくこと。有り触れた優しさの類じゃないかと自問する。そうして、本当に癪で仕方がないだろうけれども自覚するのだ。優しさならば、もっと綺麗な色をしている筈じゃあないかと。

「――ハナコ」
「……はい」
「怪我は?」
「ないです。でも、靴に砂が入ってしまって、脱いでしまってもいいですか?」
「ああ。また転ばないように、座って脱ぎなよ」
「…転ばないもん!」

 頬を膨らます幼さを親しみと変換する。混じりあう敬語と、拗ねた口調の曖昧さを突き詰めないまま。けれども心のどこかで理解していた。きっと、この距離は近過ぎる。
 面倒見はよくない。手の掛かる同室の同級生を思い浮かべた。あれは慣れと妥協と混じりけのない親しみが促した。では、彼女に対しては? きっかけなんて忘れてしまった。しかし契機を忘れてはいけない。根底は想いでしかないのだから。具体的な名前を知っている。目に見えない物なのに、どうして人は誰もが似た感情を抱くと知って決めたのだろう。恋だなんて、この神威島にやってきたヒカルには知る必要のない痛みと甘さだったのに。

「ヒカル、くん!」
「ん?」
「水が、冷たいですよ!」
「キミは馬鹿なの?」

 声を張る、馴れ馴れしさを躊躇った言葉尻を笑顔で隠していた。砂を払う為の間は、靴下までも脱ぎ去ってハナコは海水に足を浸していた。冷たいと笑う。当然だと眉を寄せる。海水浴の季節ではないとわかっているだろうに、言わせたいのだろうか。駆け引きじゃないのだ。ただあまりに積み重ねた言葉が少なすぎるからいけない。
 見つめる姿に、寄越される言葉に、ひとつひとつ真摯でありたいから乱暴になる。痛い目を見なければ懲りない隣席の彼じゃないのだ。優しさだけで閉じ込めてしまえたらいいのに。そんな願いは、ハナコに対する自分の諸々が不器用であると思い知った時点で諦めている。

「ヒカルくん」
「うん」
「私、私ね――ハナコはね、あのね、あの…」
「うん、聞こえてる。聴いてる。焦らないでいいよ」
「ダメだよ」
「え?」
「時間ないもの…」

 波音がうるさい。心臓の音もうるさい。ハナコの声だけが消え入りそうで、世界のバランスがおかしい。ヒカルの内側だけがひび割れてしまって、今にも壊れてしまいそうだ。スカートを握りしめるハナコが俯く姿が嫌いだった。内気な彼女はなかなかその場から動こうとしないから。
 時間がないのだ。知っている。ハナコが神威島を出て行くことは何日も前に決まったことだ。彼女だけが去るわけではないのだと、特別に惜しむ想いを否定しても無駄だから柄にもなく二人きりで歩いてみたりしているのに。彼女は普段では考えられないような足取りでヒカルを置いて先を歩き、転んで、水遊びなんてするつもりでいたのか手を伸ばしても届かない距離で、爪先で海面を弾く。いじけたような仕草に、いじけたいのは僕の方だとヒカルは憤然とする。けれど言えない。強い言葉は、どれだけ近付こうとも彼女を委縮させてしまう。それこそ時間の無駄というものだ。

「ハナコはね、ヒカルくんのこと――」
「ハナコ」
「……っ、」
「僕はね、ハナコのこと――」

 煩わしい。減るばかりの時間も。交わらない視線も、届かない指先も、こんな異性に内気な少女に最後の一歩を詰めさせようとする自身の不甲斐なさも。
 だから示す。簡単なことだと。流れるばかりの時間に逆らえないなら進むしかない。帳尻合わせで構わないから、いつか同じ夢を叶えた場所にいてくれたらだなんてまた願い事を掘り出して。靴ごと踏み込んだ海水は確かに冷たかった。けれどきっと、凍えるほどじゃない。抱き寄せた身体の柔らかさと温かさが感じられる内ならば、これっぽっちも凍てつかない。

「僕はね、ハナコのこと――すごく好きだよ」

 知ってた? 耳元で囁いて、引き寄せていた上体を離してハナコの顔を見つめれば揺れる瞳から零れ落ちそうな涙と、両手で口元を覆いながら小さく首を振った。

「知らなかったけど、…ううん、知ってたかも」
「どっちなんだか」
「じゃあ、ヒカルくんは?」
「ん?」
「ハナコが、ヒカルくんのことすごく好きだって――知ってた?」

 悪戯っ子の笑みだった。親しみよりも深く、愛情の傍だった。今、ヒカルはようやくハナコの内側にいる。

「知らなかったけど――知ってた」

 同じように微笑んで、ヒカルはもう一度ハナコを抱き締めた。痛がらせないように、出来るだけ優しく。海風が二人の髪を撫ぜた。足元は冷たい。けれどきちんと捕まえているから大丈夫。ヒカルはそう思う。
 海であろうと風であろうと同じこと。恋に眩んだ欲目であっても構わない。誰も、何物も、自分から彼女を浚うことはできないのだとヒカルはこの瞬間、心からそう信じた。



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やさしさはよくばりだから
Title by『春告げチーリン』





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