背筋を伸ばして廊下を歩く。木張りの廊下がまるで年季が入った建物のように不安げな音を立てる。大股で、歩調を乱さないヒカルの足音は一定だ。休み時間にざわつく廊下で、それでもヒカルの後ろに続く足音に耳を澄ます。ヒカルに置いて行かれないよう小走りでついてくる木の軋む音とは別に、上履きの裏がぺたぺたと間の抜けた音が混じって、それこそが相手の本来のペースなのだと訴えかけてくるようだった。噛み合わないペースに、ヒカルの眉は苛立ちに歪む。どちらが悪いとかではないのだ。本来なら、行動を共にする範囲内に身を置いていないのだから。

「――ハナコ」
「…っ、はい!」
「やっぱりプリントくらい僕が持ってくるから教室に戻ってていいよ」
「え、あ、いえ!美都先生は日直に取りに来るよう言ったんだから、ハナコも行きます!」
「……そう」

 別にハナコを気遣って放った言葉ではない。独りのほうが気楽だから、ヒカルは体よくハナコを追い戻そうとしただけだ。冷たいわけではないけれど、優しくする理由もまたなかったから、ヒカルは自分の気楽さを優先する。ハナコだって、先程から距離を開けてもいやに窮屈そうに振舞うから丁度いいと思ったのに。ヒカルが一言話し掛ける度に肩を揺らして、声を張らなければ消え入ってしまうのか焦ったように答えてくる。アラタのように愛想は良くない。だが彼の大声にも肩を竦ませてユノに叱られていたし、かといってハルキの落ち着いた態度を前にしても出来た人間の手を煩わせることに申し訳なさを覚えるのか腰が引き気味だったし、要するに男子が苦手なのだなと分析した。
 分析したものの、その結果をどう生かすかというとそんな場がないというのがヒカルの生活範囲だった。日直だって、いつもならばハナコと担当するはずもないだろうに巡り合わせとは厄介だ。席順で回ってくるそれは、本日は元々ユノとハナコが担当するはずだった。しかしどうしてかユノは後ろの席のヒカルに向かって交代して欲しいと手を合わせた。どうせやることは変わらないと深く考えずに頷いてしまったがそれがいけなかった。隣の席のアラタとハナコであれば圧倒的にハナコの方が雑務を任された場合協力的かつ作業スピードはスムーズだろうが相性というものがある。ハナコの優良性は女子と一緒の場合しか発揮されない。少なくとも自分相手では。
 教員室に入り玲奈からプリントの束を渡される。日直と現れたヒカルとハナコの組み合わせに不可解なものを見るような視線を貰ってしまったが深くは追及されなかった。問題を起こすような組み合わせではないと判断されたのだろう。その見識は正しい。現段階で述べれば、この二人の間には何もないのだから。

「よし、戻ろう」
「うん!」

 プリントの束を二人で分担して持つ。一応、ハナコより自分の方が多くなるよう振り分けた。目敏くも即座にそのことに気付いたハナコが口を開くよりも早くヒカルは来た道を戻り始める。これは優しさではないだろうと思った。ただでさえ歩くペースが違うのだから、男女の差があるのだから、自分の方が多く持つべきだと判断したまでだ。

「あ、あの…」
「なに」
「プリント…そっちの方が多いよ?」
「そういう風に分けたんだ。当然だろ」
「わ、悪いよ…」
「――そう思うなら、もうちょっと早く歩いてくれ」
「……ごめんなさい」

 予想通りの質問に対する彼女を委縮させない模範解答は、生憎ヒカルには用意されていなかった。尻すぼみに消えて行く言葉に呼応してハナコの歩幅は狭くなる。ヒカルとの距離が開く。置いて行ったって良い。ハナコはきっとそう言うだろう。気遣いとへりくだりを履き違えている。少なくともヒカルはそう思っている。自分の役割を果たしているのならば、必要以上の卑下は謙虚ではなくもはや過ちだ。
 たとえ原因がヒカル自身にあろうとも、彼は自分の意見をそう簡単に撤回したりはしない。けれど同時に、自分ひとりではどうしようもない状況に覚えるもどかしさもまた理解している。ハナコにとってそれは、人見知りと気安くない相手――しかも男子と二人だけという現状に対する過度の緊張なのだろう。そしてこの場で彼女に手を差し伸べてやれるのは自分しかいないことも。

「――すまない」
「え」
「怒ってるんじゃない。冷たくするつもりもない。僕はあくまでいつも通り振る舞ってるつもりだ」
「う、うん」
「だから僕は――特別君に親切にしてやることもできないけど…怖がらせたくもない」
「………」
「第一小隊の皆ならともかく君の歩くペースはよくわからないから合わせるのが難しいんだ」
「ご、ごめんねハナコ歩くの遅くて…」
「いや、だから責めてるとか怒ってるとかじゃなくて…」

 これでは堂々巡りだ。会話のステップを先に進めたくて、ヒカルは逡巡する。自然と歩調は遅くなる。ぼんやりと横目にハナコを映して、どうやらこれくらいならば彼女に丁度いいようだと理解した。けれどもこれはどうにも、ヒカルには遅いとしかいえないペースだ。

「手を引いてやるわけにもいかないしな」

 両手が塞がっているし、そうでなくともおかしな光景になってしまうから。ヒカルにしては珍しい、冗談という類の話だ。笑いが取れるとも思っていないが、怖がらせもしないだろう。そう予想して、一歩ハナコの前に出て振り向くように覗いた彼女の顔は――ゆでだこのように真っ赤だった。

「…ハナコ?」
「――ヒ、ヒカルくんと手なんか繋いだら…ハナコたぶん、歩けないと思う」
「え?」
「腰…抜けちゃうかもしれません…!」
「………」

 恥ずかし過ぎますと顔が沸騰するのではと疑うほどに紅潮した頬をプリントのせいで隠せないまま、ならば逃げるしかないとハナコはヒカルを置いて駆けるように去ってしまった。方向は来た道を行っているので、恐らくきちんと教室に戻るつもりではいるのだろう。ならば自分も早く行かなければ。散々ハナコに早く歩くよう促しておいて、自分の方がずっと遅く帰ったのでは格好が悪い。
 しかしヒカルの足は廊下に縫い付けられたかのように動かない。立ち止まったヒカルの横を他国の生徒たちが訝しみながらも通り抜けて行く。荷物で塞がったまま使えない手を不便に思いながら俯く。どうしてか、顔がとても熱かった。今しがたのハナコはこんな心地だったのだろうかと去り際の顔を思い浮かべる。
 だってあんな顔を赤くされてしまっては、冗談でも手なんて取れやしない。

「――…わかりやす過ぎるだろう!」

 呻くように吐き出されたヒカルの言葉に迫力など皆無だ。アラタやユノがこの場にいたらからかわれていたことだろう。
 だってこんな顔を赤くしてしまっては、冗談でも手なんて取れやしない。
 今日に限って日直を交代してくれと言い出したユノを心底恨んだ。歩くペースの合わせにくいハナコへの苛立ちは、いつの間にか消えている。そのわかりやすさに、ヒカルは深く項垂れた。



―――――――――――

うまくいかない日
Title by『弾丸』





人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -