踏みつける土の感触が曖昧だった。意識したことがなかったからか、しっかりと蹴りつけているという実感が湧かなかった。はやる気持ちとは裏腹に、脚の回転はムラクの限界を超えない。競走なんていつぶりだろうか。ムラクより前を走るアラタが振り返る。その表情は楽しげに笑っていた。
 ダック荘を出て、少し散歩をするつもりだった。スワン荘と違って比較的手狭な部類に入るダック荘の休日は、娯楽室を含め共用スペースも狭かった。気楽な手合わせをする為のジオラマもひとつきりでは次の予約を兼ねて他人の試合を観戦する外野で溢れていた。そこに仲の良い人間がいれば近付いて行ったかもしれないが、生憎娯楽室にいたのはハーネスの一団らしかった。ジェノックとの同盟国とはいえ、個人で付き合いを深めるほど親交はなかった。あちらもまだジェノックの法条ムラクよりもロシウスのヴァイオレットデビルの通り名の方が馴染み深いだろう。視界に何度も収める人影は知らず知らずの内に記憶に留まっているのに、付き合いを持つということはまた別問題だなとムラクは逡巡する。
 ロシウスにいた頃だって、自分に好意的に近付いて来る人間は稀だった。寄せ付けなかったのはムラク自身だったが、彼を勝手に強さの象徴のように祀り上げるのはいつだって他人で、気付けば同じ小隊の三人以外とはろくに会話も交わしたことがない。人数が多すぎたことも一因だが、だからこそジェノックにきてからのムラクは誰にも悟られないよう、密かに驚きで瞬くことしきりだった。
 自分に真っ先に手を差し出してくれた出雲ハルキという存在にも驚いたし、仲間が増えたからと歓迎会を開いてくれたジェノックに属する全員に驚いた。アラタがいうには彼とヒカルがきたときはやらなかったということだから、もしかしたらジェノックがこんな風に他人を歓迎することのできる雰囲気を維持している理由に彼の存在が起因しているのではないかとムラクは思っている。仲間だから助けるという考え方を、ムラクを警戒していたリクヤの前で当然の様に晒して見せたものの、果たしてそうだっただろうかと後々になってムラク自身首を傾げるのだ。もしやいつの間にか影響されていたのではないだろうか。誰にかと言われればそれは勿論――瀬名アラタだ。

「今日のフェリーはもう行っちゃったな」
「……あの小さいのか」
「だろうなあ、もうあんな遠くだ。汽笛気付かなかった。ムラクは?」
「俺も気付かなかったな。……走ってたからじゃないか」
「なんだムラク疲れたのか」
「ああ。こんなに走ったのは久しぶりだ」

 海を臨み、アラタはようやく足を止めた。額に汗を浮かべながらも体力的には余裕が残っているらしい。ムラクも限界とはいわないが疲労の度合いはアラタより濃い。この学園では生身の運動神経など問題にならない。体育の授業はあるが程度ではムラクとて根を上げたことはない。ただ単純にアラタの運動神経と体力がムラクより上なのだろうかと考え込んでいたせいで、アラタが海を見つめながら「毎朝寝坊して学校まで走ってるから俺、走りには自信あるんだぜ」と全く誇れない成果を打ち明けていた言葉を聞き逃してしまった。
 そしてその間に、フェリーは影すら残さず海は凪いだ。散歩をするつもりがとんだ運動になってしまった。玄関を出たところで、後ろから同じく暇を持て余したアラタに捕まったときから嫌な予感はしていたのだ。何せ出掛けるのならば一緒に行くという割に手ぶらだったものだから。CCMすら部屋に置いて来たけれどまあいいだろうと言い除けてしまうあたりこの島で暮らしているとは俄かには信じがたい判断である。挙句「港まで競走しようぜ」などと言い出したのだから本当に突拍子がない。それに乗っかってしまった責任はムラク自身にあるのだろうが。

「なあムラク、この島にいると忘れがちだけどさ」
「―――?」
「人間、脚を動かせばさ、きっと何処へだって行けるもんだよな」
「……そうかもしれないな」
「でなきゃ、この島にだって来れてないんだし」

 あの頃はこの島に世界情勢を動かす鍵が眠っているなんて思いもしなかった。ただ自分の未来を左右する場所になるかもしれないという輝かしい期待が膨らむばかりでそれ以外は何も考えていなかった。とんでもない真実の欠片を手にしてしまったというのに、それでもどこか内実を探ることもできず持て余しているが故の気楽な瞳でアラタは語る。きっとこの島の土を踏んだ子どもたちの誰もがアラタの言う通り、神威大門統合学園という場所を未来への足掛かりにすることだけを夢見ている。

「ムラクは俺に変わるなって言ったけど」
「――、」
「何も知らないで、へらへら笑ってLBXが楽しければいいって話じゃないだろ?」
「アラタ、俺は――」
「言っとくけど、ムラクに巻き込まれたわけじゃないからな? セレディが来た時点で遅かれ早かれセカンドワールドの真実は明かされてたわけだろ?それにほら、ジェノックは――美都博士のこともあったわけだしさ」

 ムラクがアラタに望んだこと。たったひとつ、純粋にLBXを楽しむプレイヤーであること。ロストすれば去る、そんなシステムに回されるのではなく、戦い、再戦を誓い切磋琢磨し高みを目指すホビーとしてのLBXとしての姿を失わない、そんなプレイヤーであること。そうであるに為にはきっと、この島が抱える真実は重すぎて、けれどその一端をアラタの前に差し出したのは間違いなくムラクだった。願ったくせに、その腕を掴んで引きずり落とした。
 けれどそうではないとアラタは言う。いつかは知らされる真実を、ほんの少し早く知っただけ。そしてアラタは自分の意志で選んだ。セカンドワールドを守ること、世界のどこかで行われる戦争を平和的に解決すること。それが結局は血を見ないだけの戦いで処理されている秘めやかな矛盾には気が付けないまま。

「俺、言っただろ? ムラクと同じチームになれて嬉しいって」
「ああ」
「お前と一緒だったら、全然、負ける気なんてしないんだ。――世界的なテロリスト相手だって……変かな?」
「いや、」

 ひとりじゃないから出来ることがあることを憚りなく宣誓すること。それは時にこの島では弱さに分類されてしまう。それでも、LBXとてそもそもひとりでは出来ないことなのだと気付かされる。そんな意図はアラタの言葉には含まれていないのだろうが、それでも。アラタの言葉ひとつに希望染みた光を見つけてしまう己の単純さがおかしくてムラクはいつの間にか笑ってしまっていた。

「俺も――そうだな、お前と一緒なら、負けないだろうな」

 悪魔と恐れられていた自分が、こんなセリフを吐く日が来るとは思わなかった。こんなセリフを吐ける相手を得るとは思わなかった。
 安らぎなんて一時で、戦いは目前で、理想の未来が戦いの果てに広がっているのかも定かではない。それでもアラタは行くだろう。踏み出した足を引っ込める彼ではないから。そしてそれはムラクも同じことだ。背中など見せつけられてしまわないよう、肩を並べていられるよう。ひとり勝手に飛び出されて、見失って、離れてしまわぬよう。祈りと決意は似て非なるものとしてムラクに行動を促す。もう何も失わない。
 だから、帰り道の競走の申し出は丁重にお断りさせていただいた。歩いて帰った方がお互いの存在を近くに感じられること、そんな単純なことをアラタに理解して貰える日が来るか。それはこの先の戦いを乗り越えてから考える。
 どうにも、LBXを介さないコミュニケーションは上手くいかない。アラタも自分も大概だ。けれどきっと。それでこそ、そうでなければありえない、そんな二人だった。



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信じていよう、僕だけは
Title by『Largo』


時間軸が不明すぎますがスルーで。





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