「いい加減にしてくれませんか」

 普段の声音よりかは何トーンか落ちたその言葉に、声を掛けられたランは勿論、発言者であるヒロも思いの外動揺している。自分の前を通り過ぎようとした彼女を引き留めるのに、肩ではなく一本に結い上げられた髪を掴んでしまったことも頂けない。もしこの場に自分とラン以外の人間がいたら確実に咎められていただろう。生真面目ばかりの面子ではないけれど、良い人の集まりではあるから。
 いい加減にしろとは言ったものの、その言葉を発するまでにヒロがランに何か注意をして、それを守って貰うように約束を漕ぎ着けていた訳ではない。ただ、ヒロが勝手に思い込んでいた自分たちのあるべき立ち位置から彼女が少しずつ逸脱し始めたことに内心で苛立っていて、忍耐の臨界点突破を迎えたが故の衝動的な行動だった。だからランには非はなく、ヒロは彼女が状況を把握する前にさっさと謝ってしまうべきなのだ。これからを意識して、世界が自分たち二人で成り立たないことを理解しているのならば。それでもヒロは掴んだランの髪を離そうとはしないし詫びることだってしない。ただ睨むように真っ直ぐ彼女に視線を送り続けている。

「ヒロ?」
「…いい加減にしてください」
「何が?ってか、髪痛いから離してよ」
「嫌です」

 離して、というランからの要求を撥ねつける言葉と共に髪をまた引っ張る。痛いと声を上げるランを嘲るように口端を上げれば流石のランもヒロの様子がおかしいと気付く。観察する為か、単なる負けん気の強さか、ヒロからの視線を受け止めた彼女はそのまま彼を睨み返す。静かに重い空気が場を支配する。この場にバン達がいたのならば、あまりに普段の賑やかさからかけ離れた二人の雰囲気に驚いたことだろう。

「――ランさんがいけないんですよ」
「…はあ?」

 「今日のヒロは変だよ!」とランが声を荒げた瞬間、ヒロは彼女を突き飛ばしていた。咄嗟のことに驚いて尻餅をついた彼女に覆い被さって押し倒す。いくら体術に優れていても身動きが取れなければ意味がない。そしてそれ以上に彼女は自分を傷付けるような行動はとらないと知っている。だから、ランの上体を完全に押さえつける必要はない。利き手だって自由なのだから顔面に一発ぶち込めばすぐにでも形勢逆転、この場を去ることだって出来るのに。自分の態度がおかしいからと床に倒されても視線でしか抵抗を示さないランをヒロは無表情で見下ろす。時折ランが口にした変という言葉を音に乗せて、その意味を理解しようとしているかの如く呟いている姿は瞳諸共虚ろだった。

「変、へん、変ですか。そうですね、変なんです。最近ずっと苛々して仕方ないんです。感情のコントロールが利かないんです。でも原因が分かっているから良いと思ってました。他人に迷惑を掛けることもないと高を括っていました。でも駄目ですね。もう無理です、でもそれは絶対に僕の所為じゃないと思います。ランさんの所為なんです。ランさんが悪いんです。最初は仕方ないと思っていませんでした。だって班行動とか、ある程度の人数となれば当然じゃないですか。対応する範囲が世界ですよ。六人一塊で手が回るわけがないんですから。でもなんでかな、僕とランさんがLBX操作に関して年季が一際浅い所為なのかは知りませんけど全然一緒に組めないし、その間にランさんはユウヤさんと随分仲良くなりましたよね。ペア決めはその時々で何を基準にしてるのかはさっぱりわからないですけど、それでもランさん、結構ユウヤさんと相性良さそうでした。悪いことじゃないですよ、わかってますよ、でも、それでも。仲間とか先輩とか友達とか。ランさんが僕以外の人間をどう分類しようとそれはなんだって良いんです。だけどランさんは僕のこと好きだって言ってくれたじゃないですか。僕もランさんのこと好きだって言ったじゃないですか。それはつまりランさんが最低限男女の差を理解しているってことだと思ってました。でも違うんですね、ユウヤさんもジンさんもバンさんもみんなみんなみんな僕と同じ男だってことわかってないんですね。これでも我慢したんです。わかってないから仕方ないんだって、納得しようとしたんです。あっちだって、そんなつもりはないんだって」

 これまで存分に貯めていたと言わんばかりに内の鬱屈を吐き出しながらランの上着の襟を掴みあげれば呼吸が苦しくなったのか、彼女は小さく咳き込んだ。意図しないことにいつもならば謝りながらヒロはその手を離していただろう。だけども自制心だとか、自分の行動を御するスイッチが悉く壊れてしまっている状態に陥っている今のヒロにランを気遣う優しさは残っていない。それに普段のじゃじゃ馬っぷりを考慮すれば、ランが本気で暴れればヒロの手を弾くなりするし、或いは自分の上に乗っかっている同級生の男子ひとりくらい吹っ飛ばせるはずなのだ。それをしないのは、どんなにヒロの様子がおかしいとしても心のどこかでヒロだからと安心しているから。それを察するヒロの内側で広がるのは喜びを含みながらも決して明るくない感情ばかりで。ヒーローに憧れるヒロを子どものまま育ってきたと暗に思い込んでいるのならば、それは勘違い甚だしい事態で危機感に欠けている。
 独占欲と呼ばれる我儘を自分が吐き出しているだけだとはヒロの方が自覚している。だがその独占欲が生まれるほどにヒロがランを想っている事実を彼女はしっかりと認識していない。その差がどうしてか途方もない距離感を自分たちに生み出すであろうことが怖くて、埋めなくてはと気持ちばかりが逸る。

「――ヒ、」

 恐らくはヒロと名前を呼ぶはずであったランの言葉は最後まで音にならずに消えた。ヒロがランにキスをして彼女の唇を塞いだから。啄むだけのキスを何度か贈って、至近距離にあった顔を離せば突然のことにランは顔を真っ赤にして硬直している。
 ――あれ?
 本当は、こんな風にランにキスを出来る男は自分だけだと彼女に証明して貰うだけのつもりだったのだが。予想外にランの反応が可愛らしくて、仄暗い胸の内に唐突に新しい感情が顔を出す。もうちょっとだけ、苛めても良いだろうか、そんな感情。
 硬直して完全に抵抗をしないランの上着のシャツのボタンを一つ外す。露わになった鎖骨に手を這わせればヒロの指先よりも彼女の肌の温度は冷ややかだった。次いで触れていた鎖骨部分に唇を当てて吸う。知識はあっても実践するのは初めてだったが、ランの肌に赤い跡がしっかりと残ったことを確認し、これは何となくだが舐めた。流石にここまでするとランの硬直も解けて今度は悲鳴を上げようとしたから咄嗟に指を三本ばかし彼女の口に突っ込む。勢いがついてしまい当然ランは咽て咳き込むから、ヒロはこれで大声は出せないと直ぐに指を引き抜いてやる。

「げほっ、ヒロ!あんたいきなり何すんの!?」
「キスです」
「キ…!それくらい私だってわかってるっつの!」
「本当はキス以上のことをしても良いんですが、それは流石に場所が悪いですし、無理矢理とかヒーローのすることじゃありませんからね」
「何その勘弁してやるよみたいな言い方」
「実際その通りじゃないですか。――ああ、それともランさん期待しました?」
「――!!んな訳ないでしょーが!!」

 ランの怒りが限界値を突破したのか、押し倒されていた身体を腹筋で一気に起こして上にいたヒロを押し返した。抵抗することなくヒロは直前のランのように床に倒れ込む。張り合いのないヒロを顔を赤くしたままのランが睨む。先程ヒロが外したボタンはそのままで、付けたキスマークも隠れていない。立て続けに起こったランの理解を超えた出来事に混乱しているのか彼女はそれを確認する余裕も取り戻せないまま逃げるように部屋を出て行った。これ以上何かをすれば歯止めが利かなそうだし、その結果ランに嫌われるのは本意ではないからヒロは頭を冷やす為にも彼女を追わない。これでランがユウヤにでも泣き付いたら次は容赦しないけれど。

「だってランさん抵抗しないんだもん」

 言い訳にもなっていない独り言は静まり返った部屋に広がることなく消える。それでも、脳裏に蘇るランは声を荒げても嫌だと言って逃げ出そうとはしないから、きっとヒロはまた彼女に同じことを迫るのだろう。ヒーローだってお年頃だ。


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Title by『にやり』





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