夜のコンクリートは冷たい。背にした面から体温を奪われていくような気がした。何か羽織るものを持って来ればよかったと思ったけれど、神威大門の校舎とダック荘の距離を考えて一度取りに戻るという案を棄却した。せめて制服ならば良かったものを、本日のウォータイムを無事に乗りきってダック荘に帰り、ジャージに着替え普段通り食事と入浴を済ませ、後は就寝を迎えるだけの自由時間に掴まれた右手を振りほどけないまま、タダシはノゾミに引きずられるように夜の校舎に忍び込んでいた。


 事前に計画を練ったものではなく、余所の国家の生徒たちが清掃活動中に困り果てていた鍵の壊れてしまった窓からの侵入。タダシを振り返り「ラッキーね!」とはしゃいだ声を出したノゾミの表情は夜の闇でよく見えなかったがきっと笑っていたのだろう。想像しただけで眩しくて、タダシはただでさえ前髪でふさぎがちな視界を更に狭めるように俯いていた。
 窓枠に手を掛けて乗り越える際、自然と離れた掌に夜風が辺り、思った以上の熱を持っていたことを知る。ノゾミに急かされタダシも後に続く。目的も知らないまま、咎めることもしないまま。言いなりになることに諦観を抱いているわけではない。ただ、もう一日を終えるだけのこの時に、ノゾミの快活な雰囲気が油断していたタダシをどこまでも圧倒して、口を挟む隙と適切な言葉を押し込んでしまった。無言の拒絶を態度で示せるほど、彼はノゾミを警戒していなかった。何より、窓から廊下に降り立つと同時に再度繋がれた手に意識を持って行かれてしまったのである。勿論、恋人同士でもない異性の二人が手を繋ぐ機会などこれまで全くなかった。意識するなという方が無理な話であり、恥じらいの欠片も見せないノゾミの態度が悔しくもあった。
 忍び込んだ夜の校舎は、意図的に取り入れられた古めかしさが薄気味悪さを助長していた。足を竦ませるほどの恐怖ではないけれど、夜風が窓を打ちつける度に響く木枠の軋む音はできるだけ拾わぬよう心掛ける。玄関に寄って履き替えた上靴も、暗がりを踏みつければいつもと違った感触かの如く錯覚しかけた。迷いのないノゾミの足取りが頼もしくもあり理不尽で、せめて行き先を告げてくれればいいものをと問わない自身の怠惰を棚に上げる。けれどなんとなくの範疇でついている予測もあった。クラスごとに集団を形成しその制限を強固なものとすると行動範囲は誰もが似たり寄ったりだった。移動教室、昼食、集会以外では外を出歩かない人間だってきっと珍しくない。タダシだってそのひとりだった。大切な、他国の親友をロストさせて外側の人間と関わる機会を失ってからはずっと。

「――どこまでいくんだ」
「てっぺんよ」
「屋上だな」
「そうともいうわね」

 遅すぎる問いかけは、悔恨から閉じこもり続けた時間を振り返りたくなかったから。勿論、この先も狙撃手として小さな傷になることは避けられないとしても、少なくとも今、ノゾミを前に沈んでしまいたくはなかった。心配ならば、きっと散々にかけてきた。気付かないふりをしていたのか、それよりも責めているのではと疑っていたのか。潔白な彼女に、背を討たれない真っ当な信頼はタダシを長いこと麻痺させていたのかもしれない。あの港で、いつも通り向けられた笑顔も、声も、気遣いを含んでいなかったといえば嘘になるだろうけれど。作り物なんぞではなかったと、それくらいのことはわかっていたはずだったのに。
 慎重に開け放たれた屋上の扉、その向こうには当たり前のことながら惣闇が広がっていた。人工的なネオンは海を挟んだ遠い向こうに並んでいるのだろう。木々に覆われた学園から見下ろす神威島の夜は、散開的に気休めの外灯を並べて既に商店街もひっそりと静まり返っていた。
 ノゾミはタダシの手を引いたまま、屋上の中央辺りまで歩み出ると腰を下ろし、そのまま仰向けに寝転がった。自然、タダシもそれに倣った。途端、視界一面に広がった星空にタダシはただ眼を見張った。何か言おうかとも思ったけれど、上手くまとめることができない。

「…天体観測か?」
「そんなたいそれたものじゃないけど。私、星座はよくわからないの。タダシは?」
「オレも、あまり」
「でも綺麗よね」
「ああ、綺麗だな」

 口数は少ない方だった。黙々と作業をこなすことの方が得意で、だからこんな風にノゾミが隣に居ることが不思議でたまらないときがままある。つまらないだろうに、ただでさえ小隊の中でたったひとりの女の子だ。作戦中以外は、数少ない女の子同士で集まっている方が絶対に楽しいだろうに。
 それなのに、ノゾミはタダシの隣に居る。こんな風に手を引いて、離れずに、タダシが立ち止まればじっと辛抱強く待っていてくれる。うじうじと決断を迷えば励まし、叱ってくれる。改めて考えてみれば、その理由がタダシには全く見当がつかないのである。

「一光年の長さを知ってる?」
「……光年、」
「光が一年かけて進む距離、おおよそ9460兆メートル」
「速いな」
「とても追いつけないわね」
「……追いつきたいのか?」
「いいえ、光なんてとても。でも、タダシになら追いつけるかなって」
「オレは、全然進めないよ。ハヤテのことがあってから、ずっと止まってたから」
「うん。でも、タダシはこれからぐんぐん進んでいくと思うから」

 心細さが差し込んだ。それはきっと、繋いだ手から伝わってきたノゾミの想いだった。どうしてそばにいてくれるのかがわからないと塞ぐ矢先に、どうして自分がどこかに進んで行くなどと思うのか。まるでノゾミを置き去りにするかのような物言いが引っかかって、苛立つ。やはり言葉にはできなくて、繋いだままの手に力を籠めた。ちょっとくらい痛がれば良かった。どうしてか、タダシだって痛いのだから。

「オレは…ノゾミと一緒がいいけど」
「え?」
「心配かけて、放って置けないって思われてただけなのかもしれないけど、できれば、その…」
「何それ、私のこと世話好きか何かだと思ってるの?」
「……違うのか」
「冗談、私、妹だし。特別面倒見がいいとか、そういうのないよ」
「………そうか」
「ふふ、そうよ」

 何故これ以上言い募れないのか、ノゾミに遮られたからじゃない。段々と、気恥ずかしさがタダシを支配して、ぎゅっと口元を引き結んでおかないと情けない悲鳴でも上げてしまうのではと危ぶむからだ。背中が冷たい。けれど頬と、手はずっと熱い。決定的な言葉を避けて、二人ぐるぐる言葉を回す。意気地なし、そう罵られてしまえばその通り。けれどもどうしようもなく心地が良かった。繋がっている、その確証さえあればいいと思えてしまうほどに。

「おかえり、タダシ」
「うん」
「みんなを守ってね」
「ああ」
「私も、タダシに負けないように頑張るから」
「オレも、ノゾミに負けないように頑張るよ」
「あら、勝負?」
「違う」
「冗談よ」

 ノゾミが肩を揺らして、身体ごとタダシの方を向く。応じるように、タダシもノゾミの方を向いた。見つめ合うには、距離が近過ぎる気がした。身体は勿論、それ以上に戯れに近付けた心が、ともすれば溢れ出してしまいそうな想いをずっとぎりぎりで抑え込んでいる。
 みんなを守ってといつだってノゾミはタダシの背を押す。それができる、そうするだけの実力が貴方にはあると、そういう意味だとタダシは受け取っている。今だってそうだった。過去にとらわれず、内に籠もらず、みんなと共に歩くことをノゾミはタダシに求めていた。そしてタダシも、過去を乗り越えて彼女の言葉に応えることを選んだ。
 ――それにしたって、みんなみんなと言うけどさ。
 引き結んだままの唇を、いっそうきつく噛んで塞いだ。唾を飲んで、息だって漏らさないよう細心の注意を。そうでもしなければ、ふと浮かんだ考えを吐露してしまうだろう。
 ――オレはノゾミを一番、大切に、守りたいと思うんだけど。
 その言葉の意味を理解できないほど、タダシは自分自身に対して鈍感ではなかった。ノゾミだってきっと。
 夜の校舎、屋上、満点の星空。ノゾミがタダシをこんな遠くまで連れ出してきた理由が、誰にも邪魔が入らない場所で二人きりになりたかったからだとは知らないまま、恋と呼ぶべき決定打を怖がる二人は、友だちとは呼べない距離で見つめ合ったまま動けないでいた。



―――――――――――

本当は、そのおしゃべりを止めさせたかった夜のこと
Title by『ダボスへ』





人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -