※アラタ+ヒカル


 人並みの家庭に育ってきたと、瀬名アラタは自負している。今と変わらず、朝は遅刻ぎりぎりまで布団に齧りつき、階下から自分の名前を呼ぶ母親の声を聞いて、自分で止めた目覚まし時計に故障の冤罪を追わせて飛び起きる。制服を着て、洗面所に駆け込んで顔を洗い、寝癖は適当に手で直してから朝食の席に着く。愛想のいい女子アナの声をBGMに、新聞の向こう側の父親にも挨拶を。慌ただしい食事を母親に叱られて、咀嚼と同時に時計の長針を確認してけたましい音を立てて椅子から立ち上がる。いってきますという声に呆れたように返されるいってらっしゃいは、今もあだ自分の帰りを待ってくれているのだろうか。

 ふらり散策にダック荘を出た。思えば神威島にやってきてから、大勢の人間が隔離されるように暮らしているこの島を広大と思ったことはないのにアラタの行動範囲は非常に狭かった。毎日同じ道を通り、ふとした思いつきで余所に飛び出すこともあるが結局は学園の関係施設の中に落ち着いていた。探検と呼ぶにはこの島に特別な期待をしているわけではない。島の地下に広がっているセカンドワールド以上の秘密なんてきっとない。
 昼食後の空気は瞼に温かく、油断すると眠気を催してしまいそうな穏やかさだった。ふらふらと歩く道の、土の感触は周囲が喧騒から遠ざかればそれだけリアルに感じられる。踏みしめて、すれ違う人のいないことが愉快でもあり、不思議であった。ウォータイム、全校集会、登下校時刻の玄関。学園の生徒だけで溢れかえる人、人、人。休日になる度に見かける人数の少ないこと。もしや大半が寮に引きこもっているのかと、想像し、LBXプレイヤーならばそれでも不自由はないことに気付く。けれど健康的ではないような気がした。今頃、自室に籠もってアラタや、第一小隊全員のLBXを整備してくれているであろうサクヤの後姿がまっさきに浮かぶ。彼の場合、趣味と義務が合わさった現在であるから一概には言えないけれど。
 考え事をしながら進む道は障害物さえなければ思いの外スムーズに景色を変えていく。鼻先を潮の匂いが過ぎて行く。このまま行けば港にでも出るのだろう。もう長いこと訪れていない場所だった。この島で、去っていく人を見送る頻度に恵まれないことがどれだけ幸せなことか、気まずいことが嫌いなアラタはわかっているつもりでいる。クラスメイトを失った経験も皆無ではなかったけれど、悲しむよりもその裏に在る真実に目を奪われてしまったから、友人を失うという感覚はアラタにはあまり身についていなかった。
 初めて神威島に降り立った日のことを、アラタは今も鮮明に覚えている。船を下りてすぐ、同じ目的地を持つヒカルに出会ったことも。あの日も、抜けるような青空だった。目先の景色を追うことに精一杯で、空など見上げてはいなかったけれども。

「――アラタ」

 思い出に耽るには、アラタの視界はめまぐるしかった。考えなしに突っ込んで、いつもフォローされていることを忘れるなと怒鳴られたことだってある。誰にだったか、それは考えるまでもない。アラタのフォローをしてくれる人間なんて数が知れているのだから。

「……ヒカル?」
「きみ、出掛けるなら何か一言残していきなよ」
「心配した?」
「そんなことより、午後からテスト勉強見てやるって約束したろ。アラタが泣きつくから、予定開けといたんだけど」
「――ああ、」

 そうだったと合点が言ったと声に出すにはヒカルの溜息が露骨すぎた。乾いた笑いを零すだけで精いっぱいで、謝罪なんて口先だけで滑って反省に届かない。放り出した約束を無責任だと思うし、申し訳ないとも思うのにどうせまたやらかすとアラタ自身思っている。ヒカルだって同様で、そんな風にアラタを甘やかしたのだってきっとヒカルだった。
 沈黙が続き、アラタはヒカルの言葉を待っていた。帰ろうと、手を差し伸べられない不器用ごと背をむけて歩き出してくれるのを。けれどその場の空気を割るように遠くで鳴った汽笛に、アラタの視線は浚われた。見れば水平線の向こう、ぼんやりと黒く点が見える。あれはきっと、この島へとやって来る船だった。積んでいるのは補給物資、或いは欠員の出た仮想国へ編入することになる生徒、要するにこの学園への補給物資であることに変わりはなかった。駒として割り振られるとして、それでも求められる実力に誇りを。背を預ける仲間に信頼を。どうか何も失わないよう、ただ祈る。

「アラタ、どうした?」
「船だよ、ヒカル」
「―――?ああ、あれか」
「神威大門に入る生徒が乗ってるかもな」
「そうだな」
「あれが往復船なら」
「?」
「あの日の俺たちみたいに、わくわくしながら船を降りた人たちの後に、この島から出て行かなきゃいけない奴らが船に乗り込まなきゃいけない」
「……それもひとつのサイクルだ」
「サイクル」
「循環させなければ、集団維持が困難なシステムだろう。この島は」
「うん」

 わかってはいるのだけれど、どうにも。感傷的な物言いをしようにも上手くいかない。実力者であることが誇りならば、ぶつかり合って優劣が付くことを恐れてはいけなかった。アラタの自尊心は他者という比較対象を求めないが故にいつだって悠々と傷付くことなく自由に振舞うことを可能としてきた。だから憚りなく、仲間にだってライバルにだっていなくなって欲しくないと声にだって出せる。

「しかしアラタ、」
「ん?」
「テストで落第点を取ろうものなら、LBXの勝負とは無関係にきみはあの船に放り込まれるんじゃないのか」
「うえっ、」

 反射的に顔を顰めていた。示された最悪の未来を想像し、それからどうにかそれがヒカルの気遣いだと理解した。素直に帰ろうと言ってくれればいいのに、無理して話題をアラタ自身に向けさせなければならないほど情けない顔をしていたのだろうか。
 文句を言い募るよりも早く、ヒカルはダック荘への道を戻り始めていた。アラタは最後にもう一度遠くの船を見て、それからヒカルの後を追う。何せ行きの道をぼんやりと歩いてきた為に帰路を正しく辿る自信がない。広い島でもないから、迷子になるとも思えないが標があるならば掴むに越したことはなかった。

「この学園を卒業するまでお互い生き残ってたらさ」
「うん」
「島を出て行く船に乗る時も、ヒカルが一緒にいたらいいな」
「――そう」
「島に来た日も、出て行く日も、オレとヒカルは一緒にいたって、なんか凄く特別な気がするじゃん」
「じゃあやっぱりアラタがロストしないか、落第点を取らないか頑張るしかないんじゃないか」
「失礼だぞヒカル!」

 他愛ない会話が弾む。十数分後、自分は進まないペンを手に真っ新なノートと書き込みの全く成されていない教科書を前に唸っているだろう。その隣には、呆れと他人事を装ったヒカルがいてありふれた学生みたいな一コマを演じている。戦争なんて二文字を意識することなく、好きなLBXの腕前を存分に揮う場所を失うことを恐れて。
 人並みの家庭に育ってきた。世界情勢なんてマスメディアに操作された媒体上の文字と声をなぞってしか取り込んでこなかった。アラタの周囲ではそれが当たり前で、悪ではなかった。
 けれど今、アラタの瞳は開かなくてはいけない。隔離された島の上、地下に隠された世界の真実を齧ってしまった以上、無関心でいてもいいはずで、けれどそれを選ぶには引き寄せた因果が許さないだろう。与り知らず、アラタは道の中央を行く。孤独など知らないまま、今日もこの島を出ていく誰かがいるのかもしれない。だがアラタはここにいる。その権利を日々勝ち取って、過ごしている。
 だからこそ、アラタはまだいつだったかいってらっしゃいと自分を送り出してくれた声にただいまと言うことはできない。今するべきことは郷愁の念を抱くことよりもまず次のテストで落第点を回避すること、それだけだった。




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ノイズだらけの世界にいて、それでも立っていられますか?
Title by『るるる』





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