※25話ネタ 深い眠りの目覚めは突然で、どこか浮遊感に似た視野の覚束なさにヒカルは既に日が落ち切っていることに一瞬気付くのが遅れた。辺りは暗く、窓から差し込む月明かりだけがヒカルの視界を照らしている。日が落ちたらカーテンを閉めるように言っておいたのにと、つい同室のアラタのことを考える。恐らく、WTSD克服のための猿田教官との特別授業から戻ってきてベッドに倒れ込みそのまま眠ってしまっていたのだろう。ここ数日のヒカルの生活はこの繰り返しだった。ウォータイムに参加できないまま、アラタたちよりも先に寮に戻り眠りに落ちる。制服の上着もそのままで、痛む体の節々がまた同じことを繰り返すかもしれない明日への憂鬱を訴えて来るがヒカルはそれをどうにか振り払う。コントロールポッドへの拒絶反応をどうにかしなければ、ウォータイムに参加することはできない。新型LBXが投入されたとはいえアラタやハルキ、サクヤに長期間負担を強いるわけにはいかなかった。 上体を起こし、じっと正面を睨みつける。扉の方までとなると月明かりも届かない。けれど夜目に慣れてくればおぼろげな輪郭は記憶の補完も手伝って見つけられる。意識を澄ましても、扉の向こうに他人の気配は感じられない。もっとも、いつだってこの部屋を訪ねてくるような人間は殆どいないのだけれど。 「――ん?」 徐々に周囲への注意力も、意識の覚醒と共に戻ってくる。そして不意に、やけに自身の右手が温かいことに気が付いた。ぴくりとも動きがなかったから、気付くのが遅れたらしい。それにしてもここまで露骨にされていて今まで気付かないとはよほど疲労と眠りが深かったようだと改めてヒカルは肩を落とした。そうして、それから漸く彼の手を握り、ベッドに頭だけを乗せて眠っているアラタの顔を、まじまじと見た。 ヒカルと同じように制服姿のアラタは、普段の騒がしさが嘘のように静かに眠り続けていた。あまりにも浅い呼吸は手が触れている距離でも目を凝らさなければ背中に浮沈を確認することは難しい。途端にせりあがる嫌な予感と、間抜けなまでの安堵が広がってヒカルは握られている手を握り返していた。 とても静かな夜だった。いつもヒカルがベッドに入っても机に齧りついて勉強以外の何かを必死にノートに書き綴っているアラタの忙しない鉛筆の音もない。同時にベッドに入っても姦しく話しかけてくる声もなく、寝つきが良かったとしても健やかな寝息や寝返りによる布団のこすれる音もない。とても静かで、それが心地よくもあり、違和感を抱かせるものでもあった。 怪我が治りウォータイムに参加した日、コントロールポッドに乗り込む前から過ぎる恐怖心に囚われ降下もままならなかった無様さを思い出す。ぐらぐらと揺らぐ意識と、きつく瞑った瞳。あの、負傷した日の光景を過ぎらせないよう必死だった。けれどどこか耳の奥でずっと鳴り響いていたような気がする。何度も、悲痛なまでに自分の名前を呼ぶアラタの声を。返事すら、寄越してやれなかったけれど。聞こえていたというには、あまりに音が散らばり過ぎていた為自信がない。格好をつけて「心配いらない」と言ってやるだけの余裕なんてものは当然持ち合わせていなかった。 「――ん、」 ヒカルが目覚めてから、初めてアラタが身動ぎした。強く手を握りすぎたかと力を緩めれば、隙間に触れた空気が寒々しくて結局またそっとアラタの手を握る。静かな夜は心細くなるものだろうかと自問して、単に余計なことを考える暇もない、しかし同じことを繰り返す停滞の日々に委縮しているだけだと俯く。 今の自分は弱いのだろうかと、アラタを見下ろしながら思う。弱いから、たった一度の負傷で心が怖気づいてしまっているのだろうかと。誰もヒカルを責めないし、いつまでも待っていると言ってくれる。しかしその言葉に無心であぐらをかけるほど彼は太い神経をしていなかった。一日でも早く戻らなければ。そう焦るほどヒカルが出すべき答えは輪郭すら見せないまま遠ざかっていく。 「――ぼくは、」 「ヒカル?」 「……!起きたのか」 なんと呟こうとしたのか。けれど恐らくは苦々しい気持ちの吐露だったに違いない。そしてそれを遮るように、ぼんやりと目覚めたての眼をヒカルに向けるアラタが名を呼んだ。ベッドに乗せていた頭を起こして自由の利く片手で口元を拭う。心配しなくてもよだれは垂らしていなかったぞとは、咄嗟に声が出ずに言えなかった。 「おはよう」 「もう夜だ」 「あー、うん、そうだな」 「…今日のウォータイムはどうだった?」 「えーっと、今日も防衛任務で敵はこなかった」 「そうか」 手を繋いでいることに触れないまま、当たり障りのない業務連絡のような会話が続く。アラタが呑気に眠りこけているのだから、大事がなかったことくらい察しているがそれでも本人の口から伝え聞く方が確実だ。無理をして隠し事をしようとしていれば、アラタの場合簡単に見破ることができるから。 「まあ、だから任務は簡単だったんだけど…さ」 「――?」 「それでもやっぱり、ヒカルがいてくれなきゃ落ち着かないんだよなあって」 「アラタ……」 「いや急かしてるわけじゃないし、ヒカルも頑張ってるって知ってるけど、最近帰って来ても疲れて寝てること多いしさ……」 「――なるべく早く戻る。絶対だ」 「うん」 「ハルキひとりに君のストッパーを任せるのは忍びないからね」 「なっ、ヒカルだって結構やらかすだろ!」 いつものアラタの雰囲気を取り戻し、ヒカルに噛みつくも二人は未だ手を繋いだままだった。端々に弱気を滲ませたアラタの言葉が収束する場所に在る感情はきっと寂しさだろう。けれどそれを言わせてしまったら、ヒカルはずるずるとただでさえ振り払えない焦燥感を更にその身に負うことになる。だから申し訳ないけれど、もう何度も口にした言葉を繰り返してその行き先を遮った。 不意に、アラタと目が合った。横から差す月明かりに照らされて、やけにアラタの瞳が輝いて見えた。彼にも同じように自分の瞳は輝いて見えているだろうか。尋ねるには柄ではなくて、ただ深い輝きを宿す瞳が浮かべる期待を裏切りたくはなかった。それが、ヒカル自身が望む場所でもあるのだから。 ――――――――――― ひとりよがりの心臓を抱いて Title by『彼女の為に泣いた』 |