※捏造


 法条ムラクの暮らしは慎ましかった。貧しさとは違う落ち着きで、静かな時間が彼の周囲を取り巻いていた。それは瀬名アラタを家に迎え入れてからもさほど変わらず、室内で交わす言葉の量が増えただけで余計な家具も、装飾品も増えることはない。リビングとキッチンの境目の壁に、二人の家事分担を示したホワイトボードが掛けられた、それだけだった。
 オリーブグリーンのカーペットには糸くずひとつなく、ムラクの仕事は完璧だった。ガラス製のローテーブルも、柔らかいクリーム色のソファにも、一切の汚れを残さず部屋を磨き上げる手際の良さと徹底っぷりをアラタはダイニングキッチンのシンクを磨きながら眺めていた。水垢を残さないよう、丁寧に。ムラクがキッチンに立つことは殆どないけれど、この部屋の調和を損なうことのないようにアラタは彼ほどの完璧を追及することはしないまでも水垢を残さないよう慎重に布巾を滑らせた。


 ムラクは潔癖症なのかと、アラタは一度だけ彼の装着している手袋を指差しながら尋ねたことがある。その手袋は、そういう意味で着けているのかと。ムラクは静かに首を振った。汚いよりは綺麗な方がいいと思うが、こだわりはしない。そんなことに拘っていては集団生活を送ることは難しい。特に神威大門統合学園での特殊な集団生活は。それもそうだと納得しかけたアラタに、だがしかしとムラクは言葉を続けた。
『自分がここにいた痕跡を残さないでいられるのならば、その方が潔癖で好ましい』
 回りくどい言い方に、アラタは意味を突き詰めることを放置した。そのときにはもう知っていた。ムラクがセカンドワールドで行われる代理戦争に否定的な考えを持っていること。きっと彼が言う痕跡とは、自身が厭うウォータイムに結局は与えられた指示のままに戦う自分のことだとアラタは察した。だから何も言わなかった。このときのアラタは、セカンドワールドは守るに値するものだと信じていたから。二人の見識の相違は今に始まったことではなく、それでも信ずるに値するその人柄を好ましく思っていた。それだけだった。


 瀬名アラタの暮らしは騒々しかった。派手とは違う環境の話で、彼の周囲にはいつだって彼を慕う誰かがいて、アラタもまたそんな大勢の誰かを慕っていたのだ。
 今でもふいに思い出す。仲間だった人のこと、友だちだった人のこと、家族だった人やその他にもお世話になった沢山の大切だった人のこと。贔屓だとか、切り捨てたとか、そんなつもりはなかったけれど、けれどアラタは選んだのだろう。法条ムラクという一等賞を選んだ。
 昔のアラタはもう少し欲張りだっただろうにと自分でも懐かしむ。けれどもやはり、全員を選ぶことは出来ないのだと寝具のシーツを整えながら思う。アラタがくすんだ白と選んだカバーをムラクは淡い白だと言った。その表現は間違っていると指摘するよりも早く、『潔癖すぎる白よりはこちらの方がいい』と話を纏めてしまった。ムラクの着ていた黒いシャツが一瞬だけ初めて出会ったころの白い制服に見えてしまい、アラタは疲れているのだなとその晩は早々に眠りについた。


 整理整頓が苦手だった。同室だったヒカルにはよく叱られた。机の上が汚い、布団の上に物を置くな、床に物を置くなそこは僕のスペースだだとか。部屋の汚さが生活態度にも及ぶんだぞと母親のようなことまで言い出す始末だった。目に見えるものを引き出しやケースに仕舞っておけば誤魔化せた。ばれていただろうけれど、ヒカルは何も言わなかった。
 ――オレ、最近掃除上手くなってきたなあ。
 それは誰に報告すればいいことなのか、アラタにはわからなかったから黙っていた。ムラクに告げるには、自己満足の域を出ない生活習慣のひとつに過ぎなかったから。
 探し物をして部屋中を引っ掻き回すことをしなくなったのもムラクとこの部屋に暮らし始めてからで、客人もない生活では日常品の場所さえ把握しておけば事足りる。そんな生活に不足を感じないこと自体、アラタにしてみれば何かが欠落しているのだと思う。けれど幸せだった。それでよかった。


 この季節は太陽がリビングの窓辺に日差しを届けなくなってから夕飯の準備に取り掛かる。キッチンに立つのはアラタの役目で、ムラクの作る料理は不味くはないのだがアラタに言わせれば悉く薄味過ぎた。食べる前から消えてしまいそうな料理は見ていて気が滅入る。食事は人間の生命を維持する活力の源でもあるのだから、もっときちんと摂取するべきだ。それがアラタの主張であり、主張するからには実行しなければならなかった。
 料理は嫌いではなかった。目に見える形に何かを作り上げていくことは楽しい。あとは妙な好奇心を起こさなければそれなりの物が完成しそれなりに美味しくムラクは自分の料理と何が違うのだろうかと首を傾げながらアラタの作った料理を口に運び続けた。彼の咀嚼はとても静かだった。
 鍋を火にかけて、玉ねぎを炒め、牛肉、パプリカ、ニンジン、水、ジャガイモと材料を次々に放り込む。きちんと火を通して、味付けはスーパーで購入した辛味のパウダーひとつで済ませる。レシピにそれでいいと書いてあるのだから手抜きだとは思わない。異国語のラベルは商品名を読み解くだけでアラタには難解で、彼はひとりで買い物にでかけない。火を止めて、味見。再び過熱して、灰汁を取ったら塩コショウで味を調えて調理終了。食器棚から取り出した二枚のスープ皿は模様が色違いのお揃いというやつでこの家には二つ一組の食器類しかない。どれかが割れてしまえば、その対の食器も捨てる。勿体ないとは思わなかった。だって一枚だけ残っていても、それはもう使わないだろうから。


 リビングでソファに座ってぼんやりとしていたムラクを読んで、テーブルにつく。手を合わせて、いただきますと一言。食事中の会話は少なく、それにももう慣れた。
 こうして同じ食卓で夕飯を食べる回数が積み重なっていく。昔のアラタは食事中でも騒がしかった。あの頃の自分が今の態度を見たらつまらない食事だというだろうか。詮無いことと、アラタは手を止めてそっと目を伏せた。

「明日は市場に買い物にでかけるか」
「うん」
「足りないものがあれば今夜の内に確認しておいてくれ」
「不足はないよ。でも何か新しいメニューに挑戦したいから色々買いたい」
「そうか」
「パプリカは飽きたな」
「ハマったのはアラタだろう」
「ムラクは食べることに興味がないんだろ」

 人間なのに勿体ない。食事を再開するアラタにムラクは何も言わなかった。反論する気もないのだろう。必要最低限の栄養が摂取できれば彼は食事におけるメニューや味付け、見た目に一切の不満を持たず黙々と口へ運ぶだけだ。構わないけれど、もしもおれが女だったらお前は確実にフラれているよと教えてやりたい。日常の細やかな変化に気が付いてやらないと、いちいち不満に思う女だっているんだよ。豊富でもない経験からアラタは知っている。尤も、アラタにそんな女の子の面倒くさい一面を教えてくれたのは恋人でも何でもない世話焼きなクラスの副委員長だった。彼女はいい子だった。そして爛漫さにかこつけて強引だった。奢らされたパフェの回数を思い出そうとしている内に、皿は空になっていた。ムラクはじっとアラタが食べ終えるのを待っていた。こういうところが好きだなあと、アラタはぼんやりと思った。


 アラタは携帯を持たなくなった。調べたいことがあれば書斎のパソコンを使う。連絡手段は相手がいないから必要ない。一度だけ一方的に綴った大好きだった人たちへの別れの手紙に使用した便箋は書斎のデスクの引き出しの一番下の奥にしまってある。できれば早いうちに忘れてしまいたい。
 食器を洗い、泡立ったスポンジを握った手で流す水量を増やした。リビングから聴こえてくるニュースの音をかき消してアラタは手際よく汚れを落としていく。濡れた食器を、手を滑らせないよう注意しながら布巾で拭いていく。
 アラタは携帯を持たなくなった。毎日食器だったり包丁だったり掃除用具だったりそんなものばかり手にしている。不満はなく、かつて片時も手放さなかった物があったことを覚えている。四角い世界を覗き込まなくなった。自分以外に分身のように大切な存在を作らなくなった。それは子どもが成長するにつれて大切だったおもちゃを手放すこととは違い、むしろ逆の、アラタの――もしくはムラクの子どもじみたわがままだった。
 離れたくないと願ってしまった。変えられない残酷な世界から逃げ出してしまった。逃げ場所はもう誰も二人のことを知らない遠い国しか残っていなかった。助けてくれる人たちは、探せばきっといただろう。けれど助けて欲しかったわけじゃなかったから、やはり助けなど求めてはいけなかった。
 そうして辿り着いたこの部屋で、今日も二人は静かに、幸せに、清潔に暮らしている。食器洗いを終えてリビングに向かえばムラクがソファに座っていて、アラタに気が付くとテレビを消した。隣に腰を下ろして、ムラクの肩に頭を預けた。目を閉じるとこの部屋はとても静かだ。外から微かに聞こえてくる声は心なしか懐かしい人たちのそれに似ている気がした。きっとそれは錯覚で、石畳を歩く賑やかな人々はこれからが夜を楽しむ時間帯なのだろう。
 アラタはひどく眠たかった。ムラクが早く寝室に行くよう促す。大人しく頷いて、のろのろと立ち上がる。シャワーは翌朝に浴びればいい。緩慢な動作で寝間着に着替えてベッドに倒れ込む。それでも習慣で二人並んで眠るムラクの為にできるだけスペースを空けて右側に転がった。
 ムラクはアラタよりもずっと夜更かしだ。けれどこんな風に力尽きたアラタの意識が眠りに溶けて一日を終えてしまう前にムラクは必ず寝室にやってきてアラタの瞼に唇を落として「おやすみ」と言う。それにどうにか「おやすみ」と返して、アラタの一日は終了となる。
 こんな風に緩やかで、質素で怠惰な日常をアラタは幸せだと思っている。淡くくすんだ色に囲まれた部屋で掃除をして、料理をして、ムラクを愛している。




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ぼくときみしかいない世界は思いの外とてもシンプルだった
Title by『るるる』




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