夕焼けに影が伸びる。ウォータイムを終えた校舎から続々と生徒たちが立ち去っていく。人だかりが窮屈だった。その波に乗ることが億劫で、ヒカルは気紛れに道を逸れた。緑に囲まれた学園は、人目を忍ぶに容易い。それを意図していたわけでもなく、舗装されていない細道を進む気はなかった。単に息苦しさを紛らわしたかっただけで、しかし視線の先に見つけてしまった人影に、ヒカルは呼吸を詰まらせて、涼しげな目許を顰めた。
 人影の正体はヒカルもよく見知ったアラタで、その彼は地べたに座り込んでいて突然現れたヒカルに相当驚いたようで、丸い瞳をこれでもかと見開いた。その表情に、驚いたのは此方の方だと言い募りたい気持ちをヒカルは寸前で飲み込んだ。喧しいばかりのアラタに、出来るだけ無関心を装っておきたかった。それは、アラタに対してだけでなく、他人に振り回されたくないヒカルの無意識な防衛本能だった。
 アラタが背に負う夕陽の所為で、はっきりと表情が見えない。それなのに、驚きを通過してから疲れたように伏せられた瞳の覇気のなさだけは手に取るようにわかる。せめてもう一歩引いた場所で立ち止まるべきだった。思っても、遅い。今更下がっては怯んでいるようでヒカルのプライドがそれを許さない。

「――寄り道か?」

 沈黙を破るように、アラタが呟いた。きっと「ヒカルにしては珍しい」だとか、そんな言葉が続くはずだったのだろう。しかし途端に顔を歪めて黙り込んでしまったから、ヒカルは返答するタイミングを逸してしまった。何をしていたんだとたった一言をさっさと尋ねてしまわなかったから、全てが後手で心配の言葉も咄嗟には思い浮かばない。それは日頃から変わらないことなのに、自分が酷く不器用に思われて、ヒカルはそれもこれもアラタの所為だと彼を見つめる瞳を無意識に細めていた。ただでさえ、望まずとも部屋や座席の配置、小隊まで同じでアラタを見ないで済む環境を得られないというのに、こんな偶然にまで引き合わされてはたまったものではない。

「君こそこんな場所で何を――」

 2人して、言葉を途中で濁す。制服のまま座り込んでいるアラタに、立ち上がる為の手くらい差し伸べてやるつもりでいた。汚れたままの制服を部屋に掛けられては困るから、忠告と小言も添えてやろうと思っていた。
 踏み出した足が土を擦る音がして、止まる。たった数十センチ、詰めた距離で露わになる光景。制服が上下汚れているだけならば、普段のアラタを見ていれば転んだのだろうと適当な予想を立てることが出来た。こんな脇道にいることだって、無駄な好奇心を働かせたのだろうと、ヒカルに言わせればどこまでも非効率的な動機がアラタにはよく似合うから。
 ――けれど。
 明らかに人為的な傷を負って頬を腫らしているアラタを前に、ヒカルにはどんな憶測も浮かんでは来なかった。混乱が一瞬で思考を白紙に戻し、動かない。腫れた頬にヒカルの視線が集中していることに気がついたアラタは決まりが悪そうに苦笑し、腫れているのとは反対側の頬を掻いた。全く取り繕えていない空気はどこまでも重たく、降りてくる夜の帷が手伝って冷たかった。

「えっとさ、ダック荘って湿布とか貰えるかな?」
「…知らない」
「そっか、じゃあやっぱり今から保健室に――」
「アラタ!!」

 逃げ出したいのだろう。それはボロボロの、格好悪い姿を見られたことへの人間としての羞恥心なのか、相手がヒカルだったからなのか。後者ならば、ヒカルは無性にアラタを殴ってやりたいと思う。怪我人の彼に、追い討ちをかけるほど非道ではないヒカルの、動き出すことのない衝動だった。
 「黙れ」と「そうじゃないだろう」の意を込めて怒鳴りつけた。びくりと震えた肩がやけに力無く映った。喧嘩であるならば、全く以て浅慮だと軽蔑してもよかった。この学園にいる意味と目的を履き違えていると冷めた視線を送って踵を返せばよかった。だが何故か、そんな迂闊さをアラタが晒したわけではないのだと、そんな予感がした。そうでなければ、こんな弱々しいアラタを見ないで済んだはずだった。

「――誰にやられたんだ」
「えー、誰だろう?」
「…アラタ、僕は真面目に聞いてるんだけど」
「いや、本当に知らない奴だったからさ、ロシウスだったような気はするけど、あそこ人数多いしな」
「………何で、こんな…」
「――調子乗るなって、それだけだよ」
「……!」

 諦観と拒絶があった。それだけのことと、アラタは笑った。それは前向きな姿勢の表れだったけれども、歩み寄ろうとしていたヒカルには鼻の先で扉を閉められてしまうかのような無礼のように思えた。
 立ちあがり、制服の汚れを掃わないアラタは近くに落ちていた鞄を拾うとヒカルに向かって「帰ろうぜ」と声を掛けた。その表情は、もう暗がりに紛れてよく見えない。
 転入して間もなく、バイオレットデビルに初めて傷を付けただの、新型LBXを支給されただの、デスワルズブラザーズを倒しただの、アラタの周囲で目まぐるしく評判ばかりが動く。ジェノックに所属し、2年5組の教室で笑う瀬名アラタ。喧しい、命令を聞かない、電気を消しても自分が眠くなるまでしつこく話しかけてくる瀬名アラタ。ヒカルには、どうしてもアラタに対するイメージが劇的に変化していないから。毎日飽きるほど見る顔だ。見直すことも落胆することもなかった。直接的な、だが部外者からの暴力をアラタがどう思ったのか。ヒカルはくだらないと思う。頬を腫らしたくらいで、アラタの何を捻じ曲げられるというのだろう。しおらしくなるとでも思っているのだろうか。どうせまた、明日のウォータイムでも小隊長であるハルキの頭を悩ませるに決まっている。そしてそれを、今のヒカルは切実に願っている。自分の与り知らぬところで、アラタが受けた屈辱に不愉快だと確かに腹を立てている。

「なあヒカルー、保健室ってどこだ?」
「……さあね、もう寮までタオルでも濡らして当てておけば?」
「そっか、湿布なんて顔に貼ってたらハルキたち驚かせちゃうしな!」
「それだけ腫れてるんだ。隠しようがないよ」
「げっ、そっか…」

 殴られた理由も、事実すらもどうでもいいのか、ただこれから顔を合わせる人間にどう説明していいものか困るから、アラタは眉を下げる。ヒカルにとっての問題は、そんなことではない。驚かせればいいし心配を掛ければいい。そんな他人の反応に気を配る必要はない。大事なのは、もう二度とアラタがこんな理不尽な暴力を受けないことと、それを望む自分の気持ちを整理することだった。

「…ヒカル、怒ってんの?」
「何故」
「いや、顔が…怖いから」
「………」
「まあいいや、帰ろうぜ。夕飯までに帰らないとな!」

 笑顔を残して、アラタは歩き出す。ヒカルの隣をすり抜けて、彼の怒りの理由など汲み取ろうともせず。そのことにまた苛立ちを覚えても、ヒカルはアラタを怒鳴らない。早く帰った方が良いことは事実だから、置いて行かれるのも癪だと大股でアラタの隣に並んで歩き出す。それをアラタは当然の様に受け入れて、大半を同じ教室で経験していたにも関わらずその日の出来事を語り始める。
 無神経なことだと溜息を吐いて、当事者が気にしていないことをヒカルが気に掛ける必要はないという正論が脳裏を掠める。掠めるだけで、追い払う。放って置けそうにない。それがアラタの性質が引き寄せるのか、ヒカルの無意識が擦り寄るのかはわからない。ただ、アラタの腫れた頬を、痛々しさを厭う。

「――アラタ」
「ん?」
「明日から寮まで一緒に帰ろう」
「へ?」

 突然の申し出に、アラタは驚いて足を止めた。釣られてヒカルも一瞬足を止めたけれど、アラタの顔を一瞥して直ぐにまた歩き出した。二人の間に距離が開く。それでもいつものヒカルの歩調よりは随分とゆっくり歩いていることをアラタは知らない。呆けていないでさっさと追いつけばいいのにと思う。けれどそれは、先程まで絶えずヒカルの内側でうごめいていた怒りとは違う、穏やかな感情だった。
 ――君ひとりくらい、僕が守るさ。
 そんなヒカルの決意を、その意味を、誓った当人すら曖昧なまま。背後から慌てたように自分の名前を呼ぶ声と、駆け出す地面を蹴る音に、ヒカルの口元は満足げに緩んだ。もう誰も、アラタに悪意を持って触れられないように。その為の隣という位置を、ヒカルは容易く手に入れた。
 それは、覚束ない線でアラタに向かうヒカルの心を満たす現実だった。


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選り好みした真実の糖度
Title by『弾丸』




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