※パラレル
※ジン→狼・バン→兎



 寂しがりやの兎は泣き腫らしたように大きな瞳をいつだってゆらゆらと水膜を張って揺らしている。寂しいと死んじゃうなんて嘘だよ、だけど打たれ弱いからあまりびっくりさせないでね。背後から飛びかかられたら、きっとショックで心臓が止まっちゃうから。
 そんなに打たれ弱くて大丈夫なのだろうかと、昔通りすがりの兎に聞かされた時は随分と心配をしたことをジンは未だに覚えている。相手の顔は、兎だったということ以外性別を含め全てがうろ覚えだというのに。
 草食動物は可哀相だと思う。捕食者になれないか弱い生き物に甘んじているから、そんな僅かな衝撃で心臓を壊してしまうのだ。その点自分は幾分気楽で良いものだと、狼であるジンは僅かばかりの自負を抱いている。尻尾を揺らし、耳をそばだて獲物を狩るのは趣味ではなく生存本能だから致し方ない。痛かったらごめんねなんて気遣いは当然しないから、だから物語ではやたらと酷い目に遭わされるのだろうかと疑問もある。悪いことをしているつもりはない。それでも、世界は弱者に優しくあるのだと上辺だけで演じてみせるのだ。
 さて、ジンが久しぶりに出会った兎は突然茂みから顔を出した彼に驚きながらも心臓が止まったりはしなかったようだ。これでぱったり心肺停止状態に陥られてはこちらの心持ちも多分に悪い。
 だが相手は驚きで跳ねた心の臓をものの数秒で落ち着かせたかと思うと小首を傾げながら興味深そうにじっとジンに視線を寄越した。ふんふんと鼻を動かし、終いには自ら間合いを詰めてしげしげとジンを三百六十度から眺め倒した。この草食動物には危機感という本能は備わっていないのだろうか。肉食動物を前に食われると疑いもしない様子にジンは毒気を抜かれたような腹立たしいような何とも言えない気持ちになり、元より獲物を探していたわけでもないので襲いかかることもせず好奇心に満ちた視線を気紛れに受け止め続けた。だが後から思うに、きっとこの時迷うことなくその草食動物を頭から飲み込んでいたのなら、ジンの人生はずっと穏やかに過ごせていた筈だった。もしもの話でしかないけれど。だがそれは紛れもない事実でもあった。
 その兎の名前はバンと言って、ジンが暮らす森とは離れた人里で人間に飼われているのだという。「食用かい?」と尋ねればとんでもないと凄まじい勢いで首を振られた。その回答に、今度はジンがとんでもないという顔をする。食べもしない草食動物を飼育して、人間は随分と贅沢なご身分だなと思った。そして同時に、普段から緩やかな檻の中で生きているからこんな兎が育ったのだと、バンの警戒心のなさに納得もした。自分を脅かす存在というものに出会ったことがないのだ、この兎は。
 執拗に名前を尋ねてくるものだから、ジンは赤い瞳でバンを睥睨しながら名乗った。ついでに自分が狼であることも。しかしそれでバンにこの状況の異常さを理解させるには食物連鎖について一からわかりやすく説いてやらなければならないようだ。そこまでする義務も、意志もジンにはなかった。寧ろ関わり合いになりたくないというのが本音だった。だが、本来ならば一思いに噛み殺して腹に収めてしまうのが最も短絡的で理に適った方法であるということが微塵も脳裏を過ぎらないことを、ジンはこの時疑問視することは出来なかった。

「なあジン、ジンの耳はどうして俺のより短いの?ピンとしてて格好いいけど…」
「さあ?だって僕は狼だからね」
「じゃあジン、ジンのしっぽはどうして俺のより長いの?ふさふさしてて羨ましいけど…」
「さあ?だって僕は狼だからね」
「それならさジン、ジンの歯はどうして俺のより尖ってるの?草を食べるのに、向いてないと思うんだけど…」
「さあ?だって僕は狼だからね」

 何度もくだらない問答を繰り返した。どうやらバンのご主人はそうとう間が抜けているのか、バンの好奇心を見くびっているのか、彼の寝床には施錠が成されていないらしい。容易く抜け出しては、わざわざジンを探してやってくるバンを、彼は出来るだけ丁重に邪険に扱わなければならなかった。相変わらず食い殺すという発想はなく、自分の元へ辿り着くまでに他の狼や熊に食い殺されない強運に感心する。本当に他の生き物に出くわさないのか、ジンが教えてやらなければバンはてんで自然界のルールに対して無知であった。

「――バン君、そろそろ日が暮れる。今日はもう帰った方がいい」
「そっかあ、じゃあまた明日」
「さよなら」

 いつの間にか、ジンはバンの名前を呼ぶようになった。囲って守ってやったりはしない。けれど宵闇の森というより危険な時間帯に至る前にバンに帰るよう促すようになった。それでも、万全の対策では決してない。バンがこの森にジンに会いにやってくること、それは永遠にバンの迂闊さとイコールで結ばれている。
 だからジンはいつもさようならとバンを見送る。明日は来ないかもしれない。それは勿論、バンだけでなくジンにも当て嵌まる言葉。肉食動物と草食動物ならば前者が強者だろう。だが肉食動物同士となると、問題は複雑だ。縄張りと、体調と、経験と、あとは運。ジンとてこの森で全くの無傷で生きてきたわけではないのだ。
 ――僕が死んだとして、バン君は果たして泣くかな。
 泣くかもしれない。あの甘ったれの兎は。本来兎である自分を脅かす外敵の死を嘆いて、あの大きな茶色い瞳を涙に濡らすのだ。
 ――それは凄く、美味しそうだ。
 バンに対して、食欲を覚えたのはこれが最初。だが直ぐに引っ込んでしまう。

「ねえバン君、僕が今すぐ君を食べてしまわないと腹ペコで死んでしまうんだと言ったらどうする?」

 こんな問いをバンに投げたのは、初めてバンを美味しそうと思ってから二日後のことだった。また明日の宣言をきっちり守り続け、連日ジンの元をやってきていたバンに、流石に翌日に即尋ねることは我慢した。
 ジンの言葉に、初めて出会った時よりも一層驚きでバンはその瞳を見開く。その驚きは、狼が兎を食べるということを予想もしないでいたということなのか、それともジンだけは自分を食用とはみなさないという不遜な自負があったからなのか。前者ならば、ジンは何の罪悪感も覚えない。後者ならば、ジンはどうしてか悲しい。

「ジンは俺を食べるの?」
「さあ?だって僕は狼だからね、兎を食べるなんて、普通のことだよ」
「………」
「驚いたのかい?」
「――うん」

 しょげたように、バンは俯く。裏切られたとでも思っているのならば、それはお門違いだ。戸惑っているだけならば、ジンにはどうしようもない。悲しむようなことではないから、慰めなんて存在しない。
 いつも真っ直ぐにジンを見つめてくる大きな瞳から涙が溢れてしまったらどうしよう。寂しがり屋の兎は容易く泣いて、死んでしまうのに。ジンがバンを食べてしまうかもしれないという現実に殺されてしまう兎を、狼はきっと美味しいと思いながら咀嚼することはできないだろう。

「――ジンが、俺を食べないと死んじゃうって言うんなら」
「……うん」
「悲しいけど、仕方ないよ」
「………」
「ジンに食べられたら、たぶん、俺は不幸にはならないんだ」
「何故、言っておくけど丸飲みなんてしてやれないよ?噛み殺してしまうんだよ?」
「痛くても、ジンの中でジンの一部になれるなら、それは幸せなことだよ」
「―――君は馬鹿だね、バン君」
「うん、ごめんね」
「いや、謝るようなことじゃない」

 返ってきた言葉は予想だにしなかった気持ち。ジンは何故こんな馬鹿な質問をしてしまったのかと悔やまずにいられない。悲壮を漂わせない悲惨な死を語るバンは、何一つジンに恐怖など抱いてはいなかった。だからジンは、きっとこの先もバンを胃袋に収めることなどできはしないのだ。
 寂しがり屋の兎を放り出すこともできず、どこまでも打たれ弱い兎を手折るように優しく殺してやることもできず、ジンはいつしかバンの来訪を待ちかねるようになる。その内、人間の檻の中に返す時間すら惜しくなってしまうだなんて、今のジンには知る由もない。噛みつくつもりも、飲み込むつもりもない。だけどバンをこの身に溶かしてしまう、その想像だけはどこまでも甘美だった。


――――――――――

∴手をよく洗って、食事はそれからだよ



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