※高校生



 傾いた日差しが橙色に染まる原理をランは知らない。ただ綺麗だと思い、教室の窓からその黄昏をぼんやりと眺めていた。シャープペンが走る音、止まり、それからまた動く。その不規則な繰り返しの終点を待つ。教室に残る二人の間に会話はなく、沈黙を気まずいとも思わず、それ故に何か話題を探す必要もなかった。気安いというのか、ランはそれを明確に判じない。目の前で、ずり落ちそうな瓶底のように分厚い伊達眼鏡を掛けるヒロに、今更特別な感慨を抱こうとはしなかった。けれども、その仲間という枠の外で、ランはヒロという存在を捕えあぐねるようになっていた。
 同じ高校に進学し、初めの一年はクラスも違った為、学校内での付き合いは浅かった。嘗ての仲間と顔を付き合せる、ようするに、LBXバトルでもしようかという割と頻繁な招集でばかり顔を合わせる機会は確保されていて、中途半端な距離に寂しさを覚える暇もなかった。いつの間にか、お世辞にもお洒落とはいえない、寧ろランの実直な性格から言わせて貰えばダサい伊達眼鏡をヒロが装着するようになり、周囲が笑ったり、戸惑ったり、理由を察せずにいる中でバンだけが久々に見たなどとランの知らないヒロを匂わせたことに、それだけに彼女は腹を立てた。

「それ、似合ってないよ」

 何度も言った。仲間たちの前でも、学校の廊下で遭遇した時も、彼の友人たちの前でも。その度にヒロは失礼なと憤慨しながらも本気で感情を波立たせてはいなかった。言葉遊びなどするような人間だと思っているのか、ランの不満げな眉と眉間の皺にヒロがどんな瞳をしていたのか、その分厚い伊達眼鏡の所為ではっきりと見ることができなかった。あの、真っ直ぐな瞳が隠されてしまっている。それが不満なだけなのに、どうしてヒロはこう察しが悪いのかしらと、まるで敏い女の子が鈍感な男の子に呆れるような体で以てランは落胆していた。
 結局ヒロは伊達眼鏡を外してはくれなくて、遠目に見ていれば彼の母親の外見をなぞっているようにも見えた。しかしそこまで依存した母子関係ではなく、単に、ヒロにとって常用句でもあった「ヒーロー」という、その語に何かしら理由があるのだろう。世を忍ぶ仮の姿に変装しているのだとか、そんな、ランからすればくだらない理由。
 自分たちの嘗ての歩みを積極的に吹聴するような真似はしないし、趣味でもない。しかし紛れもなくあの日自分たちが成したことはヒーローの称号を誇ってもいいのではないか。ランはそんな誇らしさを未だに抱えている。それは傲慢でも、過剰な自意識でもない。仲間たちと成し遂げたこと、守り抜いたこと、戦ったこと。今のランに繋がる、成長の軌跡とも呼べる過去。そこにいた、隣を歩き、時々前を歩かれてしまったヒロのこと。思い出して、やはり少しだけ、格好良かったのかもしれないと思えるようになった。相変わらず、趣味の時間に潜り込むと目的の為にどこまでも足を伸ばす活発さはあれど体力はなかった。肉体的な強さならばランの方が圧倒的だったことだろう。
 それでも、高校生にもなれば流石のランも認めている。ヒロは男の子で、自分は女の子であること。そこに生まれる選択肢も、変化する気持ちも。目の前のことに囚われて、視野が狭まりがちだった嘗ての彼女からは信じられないくらい、すとんと目の前の現実を心に落として、見つめることができるようになった。だからわかる。こんな風に放課後の教室に二人きりでいる、それは当人たちの付き合いの長さ、その親しみよりも、もしも誰かに目撃されたとき、その第三者の価値観で好き勝手に捻じ曲げられてしまう危うい場面であるということ。そしてそれをどこかで期待する下心がランの内側で徐々に育ち始めているという事実。どうしてか湧き上がる罪悪感に、ランはヒロの瞳を真正面から見つめることが難しくなっていく。離れがたさを覚えて、授業中に提出が間に合わなかった課題のプリントに取り組む彼を待っている。似合わないと厭った眼鏡に救われて、持て余す感情に押し潰されそうな胸の内で、ランはただ夕日が助長した切なさに煽られて間違っても涙など零さないようにと唇を引き結んでいる。

「――あれ、違うや」

 一切の会話がなかった教室に、久方ぶりにヒロが発した声がじわりと広がった。ランは瞬きの振りをした数秒の逡巡、目を閉じて、彼の声を鼓膜から全身に渡らせてから彼の手元に目を向けた。既に消しゴムで消された文字が何と綴られていたのか、何度も視線を落としていたつもりが全く思い出せなかった。

「――ランさん、」
「何」
「退屈なら、先に帰っちゃってもいいんですよ」
「…邪魔ならそうする」
「何でそんな言い方するんですか」
「ヒロが私を邪険にするからだよ」
「…だってランさん、ずっと喋らないし退屈そうに見えたんで、我慢してるのかなって思っただけです」
「我慢するように見えるんだ」
「…そりゃあ、昔のランさんなら、でも、」
「歯切れ悪いなあ」

 ヒロの手が止まっている。優しいのだとランは思った。単に作業が勉強だから、会話と手を同時に動かす程の熱中を必要としていないだけかもしれない。それならば、この会話は彼にとっては後に妨げと思われるだろう。それが、どうしようもなくしんどくランの胸に圧し掛かって、机に頬杖をついて彼女は視線を濃すぎる橙に向けた。
 何もかもがこの瞬間から上手くできなくなってしまうような気がした。挨拶、会話、触れることも、目を合わせることも、隣を歩くことも。呼吸すらままならなくなって、ランはいつかヒロに恋していることを自覚する。そうして、それから、その次は――。
 わからないから、停滞を望む。自我は微睡んでこれまでの自分、その記憶を頼りに再生するだけの機械だったら間違えないだろうに。けれどもそれはどこまでも自分らしくないのだとランは知っている。駆けて行けない、飛びつけない、怒ることも振り回すこともいつかできなくなるのだろう。いつだったか、ヒロに引き離されるばかりの身長差を嘆いた幼さとはまた違う、どうしようもない焦燥と諦観が彼女を待っている。

「ねえヒロ、」
「はい?」
「その眼鏡、似合ってないよ」
「相変わらず失礼ですね」
「だってヒロの瞳はとても綺麗なのに、見えなくなっちゃうんだもん」
「へ――」
「……やっぱり今日はもう帰るね。また明日!」
「え、ちょっ、ランさ――」

 呼び止める隙など与えない。素早さには自信がある。女の子だから損なわれない、数少ない要素。意識して、また明日という言葉を強めたのは、らしくないことを言った不信感を与えない為。継続する時間を思えば、直前の言葉のことなど全く気に留めていないのだという印象を植え付けたかった。けれど、通じたかどうか、それはランにはわからない。一度もヒロを振り返ることなく教室を出て行ってしまったランには、何も。引き留めようと伸ばした腕を所在なく降ろしたヒロが、一人きりになった教室で珍しく眼鏡を外したことも、情けなく眉を下げながら、仮にこの瞳を晒していたとして、もうランは自分と視線を合わせてもくれないじゃないかと嘆いたことも、彼女は何も知らない。
 また明日、その一語を呪いのように繋ぎ続け、一歩踏み出すことのできない二人の日常は文字通りまた明日も続いていくのだ。



――――――――――

それが崩壊の前兆だったとして
Title by『弾丸』




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