※本編直前設定・捏造過多





 晴れ渡る空だった。遠くで海鳥が鳴いていた。よくある港の景色に溶け込んで、瀬名アラタはこれから始まるであろう新たな世界に胸を高鳴らせていた。汽笛は鳴れども出港にはまだ時間があるようで、眼下には別れを惜しみ、旅立ちを見送る涙と笑顔がちらほらと見受けられた。
 船の行先は神威島。優秀なLBXプレイヤーが集う聖地と呼べる場所、神威大門統合学園。どんな場所だろう、どんなプレイヤーがいるのだろう。期待ばかりを膨らませ、訪れる困難すら軽々と乗り越える姿ばかりを描く。現実に直面するまでは、それもいい。

「旅は初めて?」

 アラタの妄想を途切れさせたのは、柔らかく、しかしどこか芯の通った声だった。名前を呼ばれたわけではない。耳元で囁かれたわけでもない。だがアラタには、この声が自分に向けて放たれたものであるということがどうしてかわかった。だから振り向いた。そこには、ひとりの青年が立っていた。口元には穏やかな微笑、目元は力強い凛とした輝きが宿る。だがどこか遠くを見ているような、澄んだ、それ故に霞を眺める心地であった。
 リュックひとつのアラタに対し、彼も斜め掛けの鞄ひとつだった。そしてもう一度問われた。旅は初めてか、と。無言で頷いていた。果たしてこの出港が、アラタにとって旅立ちとは呼べても旅となるかどうか。学園に在籍する以上、目的地である神威島に長期間滞在することは既に決定している。帰る場所はあれども時の定まらない移住は旅であるのか、経験のないアラタにはわからなかった。

「――神威島かあ」
「え、なんで俺の行き先…」
「だってこの船は神威島行きでしょ?」
「あ、そうですよね!」

 アラタから視線を外して、青年は海を見た。暖かな風が吹き抜けた。二人の髪がふわり舞って、言葉が途切れる。彼の見ている水平線に神威島が位置しているのか、アラタにはわからなかった。この船に乗り込めば、連れて行って貰える場所だった。
 一瞬でも、どうして初対面の相手が自分の行き先を知っているのかと逸った自意識によって湧き起こる羞恥で頬が染まる。視線はこちらを向いていないのに、アラタは誤魔化すように頬を掻いた。逆にその動作が、青年の視界の端に引っ掛かり再度彼の意識を引き寄せる結果を招く。どうやらアラタの心境を察したのか、気にすることはないよと開いていた距離を詰めて、頭を撫でられた。初対面の、同性の、名前すら知らない青年にこんな触れられ方をするとは。あやすのとは違う、相手を落ち着かせる効果を持った、不思議な手だと思った。身長差で自然と見下ろしてくる瞳に、表情に、アラタは妙な既視感を覚えた。

「――あの、どこかで会ったことありましたっけ?」

 先程の過剰な反応といい、きっとこれも自惚れた言葉かもしれないと紡ぎ終えてから気が付いた。青年は、予想だにしない言葉だったのか、アラタの言葉を咀嚼するように数度瞬いてから、ゆっくりと首を横に振った。どこかで見たことのある顔だという想いは相手を前にする時間が長引けば次第に強くなる一方であるのだが、相手に嘘を吐く理由も思いつかない。知り合いに似ているのだろうかと適当な顔を思い浮かべてみても、直ぐに思い出せない時点で合致の望みなど薄かった。

「えっと、すいません。なんかさっきから変なこと言って」
「いや、いいよ。よく言われるんだ」
「――はあ」

 それはそれで、不可思議な人だという念を強くする。ありふれた平凡な顔立ちというわけでもなかろう。声や瞳に初対面のアラタすら特徴的な力強さを感じ取れたのだ。記憶に紛れて他人と判別が曖昧になるような人とも思えないのに。しかし、今さっきアラタとて過去に出会った誰かではないかと記憶を漁ったことはすっかり棚上げしている。
 青年は笑みを浮かべながら、戸惑い顔のアラタの次の言葉を待っているようだった。初めに声を掛けてきたのは彼の方なのに、聞きたいことを聞けばあとは偶々居合わせた他人と出港まで顔を付き合せるだけという飄々とした態度。怯むアラタではない。ただ珍しい体験をしているとは思う。人見知りの気はないアラタとて、船上ですれ違うだけの人に、一々声を掛けたりはしない。

「貴方も神威島に?」
「俺?」
「この船に乗ってるってことは、そうなんですよね?」
「いや、俺はただの見送りでね。さっき神威島に行く友だちと甲板で別れて来たんだ」
「……お友だちは神威島に?」
「みたいだね」
「貴方は行かないんですか」
「うん、色々忙しくてね、こうして見送りに来られただけでも良い方だよ」
「へえ」

 また会話が途切れてしまうな、とアラタが内心で焦りに似た感情で次の言葉を探そうとした瞬間、また汽笛が鳴った。そしてそれを聴いた青年は、「そろそろ降りないと」と肩を竦めあっさりとアラタの横をすり抜けて行こうとした。引き留める理由はなかった。

「それじゃあ、良い旅を。祈ってるよ」

 言い残して、青年は一度も振り向かず歩いて行った。この船には彼の友人という目的が明瞭であるにも関わらず、偶然出会って会話を交わしただけのアラタの為に祈ってくれるというのだから人が好い。
 アラタのいる場所は港に面した側だったので、きっとこのまま見下ろしていれば下船した青年を見つけられると思った。そしてその通り、アラタは直ぐに船を名残惜しむことなく港から離れて行こうとする青年を見つけ、彼の手がCCMを弄っていることに気が付いた。そして思わず声を上げて彼を呼ぼうとしていた。名前を尋ねなかったことが、今更悔やまれる。

「あの!」
「――?」
「あの、名前――!」

 手すりから身を乗り出すように叫んだ。青年は、アラタが彼に声を掛けられたときのように遠くから聞こえる声を自分宛てと感じ取ったのか、周囲を数度見渡してから上を見、アラタに気が付いた。
 名前を尋ねようと叫ぶアラタの声は、出港を告げる一際喧しい汽笛にかき消された。ゆっくりと、船が港から離れて行く。青年はアラタを見上げ、微笑んだまま返事を寄越すことはなかった。未練なのか、ずっと後方を見つめているアラタもあと数分もすれば進行方向の、海の美しさに気を取られるだろう。それが若さ、旅立つ少年の持つべき気概というものだ。
 港に残された青年は、新たな物語に旅立つ少年を見送り続けた。出港の揺らめきに太陽の光を反射した海が凪ぐまで、ずっと。



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行く先であなたが辛い目に遭わないように
Title by『ダボスへ』




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