躑躅の咲く頃だった。大きすぎる音を立ててシンクを跳ねた水道水が、衣替え直前の袖を濡らしていた。捲らないのと言いかけて、どうせ今更と口を噤んだ。太陽光が眩しくて、跳ねる水滴は煌めいていた。夏みたいだった。嫌われがちな今年の夏の、外皮だけを映している。
 アミが持ち歩くふわふわとした表面のポーチは、白いけれど暑苦しいね。バンが笑えば次はエナメル辺りが涼しいかしらとアミが言う。顔は彼を見ないまま、彼女は手を洗うのに真剣だった。丹念に立たされた泡が容赦なく落とされて排水口に吸い込まれていく様を見つめながら、バンは気温の上昇という攻撃を受けている。手慰みに取り出していたCCMをバンがポケットに仕舞うのと、アミが蛇口を締めたのはほぼ同時だった。
 教師との二者面談に臨んでいるカズを待つ二人の間に会話は少なかった。人気のない廊下に賑やかな声は響いてしまうから。ぴたりと閉じられた、教室の扉を落ち着かない心地で待つバンとは反対を向きながら、アミはポーチから取り出した手鏡を覗き込んでいる。身嗜みを整える、それだけの仕草を、バンは相手がアミだからという理由だけで視線を逸らす。それが礼儀だと思っていた。アミだからではなく、女の子だからと言えればよかったのに、バンは彼女以外の女の子というと、あまり想像の幅が広くない。母親であったり、ランやジェシカ、ミカといった存在は確かに女の子ではあったが、不躾な凝視を恥じ入るほど近くに陣取ったことはなかった。

「あら、蝶々」
「――どこ?」
「もう行っちゃったわ」
「ふーん」

 手鏡を閉じたアミが窓の外に見た、蝶々。ふらふらと飛ぶ姿は人間から見ればひどく頼りない。壁に寄り掛かっていたバンが、彼女が見た蝶を見つけるには動作が緩慢過ぎた。窓の外には、遠くこれから遊びに繰り出すのか大人しく帰るのかもわからない生徒たちのグループがちらほら横切っている姿しか見えなかった。
 顔も見えない生徒たちの姿が、太陽の真下に晒されて揺らめいて見えた。それは、去年のバン達も持ち合わせていたはずの陽気さだった。今が陰気とは思わない。ただ窮屈になった。使用する校舎の階が下がっただけで。高校三年生という肩書を持っただけで。成人の目安となる年齢まで中途半端な二年を残しているのに、どうして社会に出ることを選べるのだろう。学生気分に執着はないのかもしれない。ただ選べと強要されると途端反応が鈍るのは、バンがまだ子どもらしさとして抱えている我儘だ。

「バンはもう面談終わったの」
「まだ。最終日」
「そう」

 深い関心はないようだ。半ば答えを知っている質問だった。だって、バンは昨日カズと一緒にアミの面談が終わるのを待っていたのだ。まさか、バンの面談だけ無視してさっさと置いてけぼりにして帰ってしまうほど薄情ではあるまい。
 高校生活三年目に差し掛かっても、幼馴染と親友とばかり共にする通学路に、バンはさほど疑問を持っていない。漸くホビーとしての信頼回復も軌道に乗って来たLBXの世界では変わらず顔の知れたバンに顔見知りは多いが、学校、キタジマ、自宅。その他諸々の縄張りを移動まで共にするほど親交のある人間は結局中学時代から代わり映えしなかった。寧ろ同じ高校、一学年下にヒロやランが飛び込んできた為にあの頃と変わらない面子で賑やかに固めた世界には罅すら入る余地はないように感ぜられていた。
 音が遠い。金属の小気味いい音が聞こえて、野球部かなと伏せていた視線を上げる。生憎、グラウンドは教室からでないと見えない。快活な、運動部の掛け声は遠い。同じ室内、だが別棟から鳴る吹奏楽部のばらばらの調整音もバンの意識を支配するほどの音量ではなかった。

「退屈なの?」
「少しだけ」
「自販機でも見に行く?」
「……うん」
「私、フルーツミックス飲みたい」
「…遠い方?」
「ちょっとだけでしょ」

 ポーチを鞄に仕舞って、今度は財布を取り出す。アミが歩き出して、バンもそれに並ぶ。数カ所に設置されている自販機の品物を、朧気にでも把握できる時間を過ごして、バンはポケットに手を突っ込んで小銭に触れる。自販機やコンビニで受け取った釣銭を、財布ではなく制服のポケットに放り込むことをアミはだらしないと言ってよく叱る。財布の残高に四苦八苦する学生ならば、きちんと手持ちを纏めておくべきだとはバンも思う。ただ時々の無意識が、数秒の手間を惜しませる。掴んで、開いた掌に乗っていたのは百円玉が一枚と、五十円玉が三枚、一円玉が二枚。百円玉と五十円玉を一枚手に残して、後はまたポケットに戻した。横目でアミが呆れたように肩を竦めた。大丈夫、クリーニングに出す前にはきちんと取り出すから。言葉にはしないけれど、そろそろ衣替えを意識する、そんな天気が続いていた。

「バンは何飲みたい?」
「冷たければ何でもいいや」

 自販機を前にして、お目当てのものがあるアミの動作は緩やかに、速やかに済まされる。バンは何度か視線を左右に走らせて、スポーツドリンクをペットボトルで購入した。しゃがんで商品を取り出しながら、視界の端にアミを捉えて止まる。揺れた、彼女のスカートのプリーツが頼りなかった。
 ――夏みたいだ。
 抱いた感想は、バンにもよくわからなかった。移動してきたことで、先程よりもよく聞こえるグラウンドからの音が強迫観念のようにバンを脅かそうとしていた。それは、差し迫りバンを弾き飛ばすだけの景観でしかない。

「ねえアミ――」
「んー?」
「……暑いね」
「そうね」

 ストローを咥えながら頷いてくれたアミに、何も問えないでいるバンは、一年後の自分の姿など描けるはずもない。面談時に教師が持ち出してくるであろう、四月頭に提出した進路希望の調査表に自分が何と記入したか、バンは覚えていないのだ。
 ぼんやりと立ち尽くす。バンの横を、蝶々が飛び、過ぎた。やがて躑躅の生け垣に止まる。その光景を春の名残と捉えながら、バンは生まれて初めていつの間にか到来しているであろう夏に、怯えた。



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大人になりなよと誰かが言った
Title by『ハルシアン』





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