抱き締めた身体がやけに細く折れてしまいそうだと思った。だからきっと折れないように離してやるのが正しいのだろう。けれどバンは、折れてしまうことも離れてしまうことも同じことだと、アミを抱き締める腕の力を強めた。どんなにか弱い人間だって、バンの腕力如きで折れはしないということも、頭の片隅でしっかりと理解している。ただ抱き締められているアミは息苦しいのか、バンの肩に預けていた頭を上げて困ったようにバンを見る。彼女の肩に頭を押しつけているバンにはそれが見えない。しっかりと背中に回されてしまった腕からは逃げられず、アミは彼の背中を数回あやすように叩いた。

「どうしたの?」
「…好きだなって思っただけ」
「嘘」
「嘘じゃないよ」

 少なくとも、バンがアミを好きだと思っていることは。彼女もまた、そこを疑っているわけではない。だけど、そんな理由で唐突に自分を抱き締めるほどバンは恋愛感情の表現に長けているわけではない。また表現することを迫られてもいなかったはずだ。アミは、幼馴染の延長線から辿り着いた恋人という関係を満ち足りたものとして享受していたし、バンへの理解もそれなりに深い。恋人になったからといって、二人の日常に真新しい変化がなくとも不満を訴えたこともなかった。好きだと告げて拒まれない安堵が大き過ぎたのかもしれない。幼馴染だからこそ怖かった進展による崩壊を免れたこと、行き着く幸せはまだ先にあるはずなのに、また停滞を良しとしている。
 それでも、こうして抱き合うことはあったしぎこちないファーストキスも済ましている。触れ合うことに慣れたわけではなくて。今だって徐々に早まる心音が触れ合った場所から伝わってしまったらどうしようとアミの気持ちは逸る。照れるには、バンの様子がどうにも妙だというのに。

「バン、何かあった?」
「うーん、何だろう…?」
「わからないの?」

 バンの言葉は続かない。その代わり、答える意思はあるのだと漸く密着していた身体を引き剥がしてアミの顔をじっと見つめてくる。腕は腰に回されたまま、やはり逃げ出すことは叶わない。逃げるつもりもないけれど、つい意識がバンの両腕を意識してしまう。至近距離で見つめ合うことへの恥じらいも、アミの視線をさまよわせていた。
 けれど、バンはきっとアミが視線を合わせるのを待っている。微動だにしない気配と、緩まない腕の力。自分が折れる以外に道はないと腹を括ってアミはバンを見る。また「どうしたの?」と尋ねようとしたけれど生憎声にならなかった。曇りのない瞳が、真正面からアミを映している。きっと彼女の瞳にはバンが映っている。それを、彼はどんな気持ちで見るのだろう。こんなに近くにいたとしてもアミにはバンの考えを見抜くことは出来ない。距離や関係の問題ではなく、他人の本音などそうわかるものではない。

「好きだよ」

 いつもならば、何度も繰り返さない言葉。バンは恋心を音に乗せて伝えることをえらく不得手としていたから。そもそもアミへの恋心を抱くにも友情が先行し過ぎてなかなか時間を要した。好きという具体的な二文字を貰ったのは、告白の時から数える程度でしかない。それはアミも同じことで、世の恋人たちがどれだけの頻度で愛を囁き合っているのか参考までに教えて欲しいくらいだ。心の内でならいくらでも言えるし実際片想いの間はそうしていた。バンがどうだったのかは知らない。けれど両想いになってから、手を繋ぐことにも顔を赤くしながら「いい?」と問う彼が自分を好いていない等と不安になるはずもなかった。

「――私も、好き」

 バンは不安になるのかしらと、アミはそれだけが不安なのだ。彼を疑わない自分と、自分を疑わない彼はイコールではない。だから、怠惰に言葉を省いてはいけないのだ。褪せることなく深まるばかりの愛だって、伝わっていなければ何の意味もない。
 アミの言葉に、バンは一瞬安らいで表情を緩めた。しかし直ぐに怪訝そうに眉を顰めてまた彼女をキツく抱き締めてしまった。やはりアミには何が何だかわからない。こうして引き寄せられているということは、必要とされていると考えて良いのだろう。だけど肝心な説明を受けないままではどうしようもない。だからアミは、今度はどんなに息苦しく恥ずかしくとも最後までバンの言葉を待とうと耳を峙たせた。

「――足りないって言ったら、怒る?」
「…え?」

 思ったよりも早く、バンは口を開いた。思わず尋ね返すように声を出してしまったが、アミはまだ彼の言葉は終わっていないと気付き慌てて口を噤んだ。

「好きって、それだけじゃ何か最近足りないんだ」
「バン?」
「言葉にして、手を繋いで、抱き締めて、キスして。怠けてなんかいないのにもっと何かしなきゃって、そうしなきゃ足りないって落ち着かない」
「………、」
「我が侭だと思う?」
「――ううん、ちっとも」

 真剣な瞳を作り出す根底がアミへの想いであることを知り、今日初めて自分からバンに身体を預けた。戸惑うことなく抱き止める彼はやはりいつもの初な雰囲気からかけ離れていて、それだけ思い詰めているのかと心配にもなる。
 悩むことはないと伝えたい。足りないと訴えるバンに、全て差し出してしまいたい。貴方にならそれが許されるのだと一刻も早く理解して貰いたい。溢れ出す様々な感情は喉の奥でぶつかり合ってなかなか口から出て来ない。バンの背中に腕を回して力を籠めても、女の子の腕力では息苦しさで此方の必死を伝えようにも及ばない。
 逸る気持ちばかりが暴れて言葉が追いつかない。せめてもと見上げるバンの顔。彼の瞳に映る、先程よりずっと深刻な顔をした自分。バンは、アミの表情からその想いを察したのかそっと顔を近付けて、そのまま彼女に口付けた。突然のことに後ろに引きそうになるアミの頭を掻き抱き角度を変えて何度も。経験したことのないキスの連続に上手く呼吸が出来ないアミの瞳には生理的な涙が浮かび、流れ落ちる。その雫が彼女の頬に添えていた片手に弾けて、バンはそこで漸くアミを解放した。

「…ごめん」
「謝ることじゃないわ」
「でも、アミ泣いてる」
「これは…悲しいとか嫌だとかそんな理由じゃないの。…ちょっと息ができなくて、それだけよ」
「本当に?」
「本当」

 アミが頷いて、バンは笑う。それはいつも通りの、快活さを湛えた笑みだった。直前まで足りない足りないと枯渇を訴えていた物憂げな空気は一瞬の間に消え去ってしまった。少しだけ肩透かしを食らったようで、アミはバンの肩に頭を置いて「疲れちゃったわ」と呟いた。
 それに対するバンの答えは「俺はちょっとだけ満ちたよ」という幸せな含みを持たせたものだった。あくまでちょっとだけ。限界にはまだまだ程遠く自分はこの先も足りないと繰り返しアミを求めるに違いない。そんな予感を、バンは抱き始めていた。




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上手く言葉に出来なくて良かった
Title by『告別』




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